宮廷へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 08:05 UTC 版)
「マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ」の記事における「宮廷へ」の解説
ヌイヤン夫人との道中、フランソワーズはポール・スカロンと出会った。2人は面会後、それぞれ調和するものを感じた。スカロンはフランソワーズより25歳年上で、リウマチ性の関節炎によって身体障害の状態にあった。2人の組み合わせは良い縁談と目論まれたものではないが、貧しく資産のない天涯孤独の少女には選択の余地はなかった。しかしスカロンは、彼女が女子修道院へ修道女として入ろうとした時、自分が持参金を払うので結婚しようと申し出たのである。フランソワーズはスカロンの申し出を受けて、1651年にスカロン夫人となった。 彼との9年間の結婚生活で、フランソワーズは夫の看護師であり、マレ地区にある夫の社交サークルの女主人となった。この時代に彼女は文筆家や機知に富んだ人々、モンテスパン夫人、ニノン・ド・ランクロ、ボンヌ・ドゥディクールらと面識を持った。"ベル・インディエンヌ"はスカロン作品の第2期に影響を与えた(作中、頻繁に西インド諸島やマルティニークへ行く必要性に触れている)。喜劇作家スカロンは大真面目に、マルティニークとの貿易を行う商社に3000ポンドの投資を行っていた。若い妻を喜ばそうと、あまりにも生意気に彼を模倣した作品を削除することにも同意していた。 1660年にスカロンに先立たれると、王太后アンヌ・ドートリッシュは未亡人フランソワーズに対して年2000リーヴルに年金を増額して与えたため、彼女は文学サロンに残ることができた。しかし1666年に王太后が病没すると、ルイ14世はフランソワーズの年金を中断させたため、再び困窮した状況に置かれるとポルトガル王妃として輿入れの決まったヌムール公爵令嬢マリー=フランソワーズの女官としてリスボンへ向かう支度を始めた。出発前彼女は、既にルイ14世の秘密の愛人であったモンテスパン夫人と出会った。フランソワーズの朗らかさや慎み深さを知るモンテスパン夫人はルイ14世に頼んで、生活に困るフランソワーズがパリに留まり、ポルトガルに行かずに済むよう年金を復活させてやった。 1669年、ルイ14世とモンテスパン夫人の第1子が誕生すると、モンテスパン夫人はフランソワーズに給料を多く与え、ヴォージラール(現在のパリ15区)にて秘密裏に王の庶子を養育する召使の一人にした。フランソワーズは家庭内での自らの役割を果たし、より良く家庭を守り慎み深く勤めた。彼女は母性ある人物で、王の庶子たちを大きな愛情を持って接した。庶子で最も年長のルイーズ・フランソワーズが夭折したとき、養育係のフランソワーズは悲嘆に暮れた。 フランソワーズの献身的な働きに対して、王は多額の給料で報った。1674年12月、彼女はヴィルロワ侯爵夫人フランソワーズ・ダンジェンヌの保有していた土地で売りに出されていたマントノンの所領と城を購入した。彼女の父シャルル・フランソワ・ダンジェンヌ(フランス語版)は、マントノン侯爵の称号を持つ元マリー=ガラント島知事であった(奇しくもフランソワーズの父コンスタンが欲した官職であった)。始めヴォージリアールの邸宅で育てられていた王の庶子たちは、この後はマントノン城で暮らすようになった。 1678年、フランソワーズはルイ14世から所領にちなんでマントノン侯爵夫人の称号を与えられた。これでフランソワーズはスカロンの名を上回る称号を持った一方、このようなルイ14世の引き立てがモンテスパン夫人の嫉妬を買った。宮廷で今やマントノン夫人として知られるようになっていたフランソワーズはモンテスパン夫人との仲が悪化、モンテスパン夫人の生んだ子供たちと彼らの世話について頻繁に口論するようになった。 ルイ14世は"マントノン夫人は愛することはどのようなことか知っている。彼女に愛されることは大きな喜びとなるだろう"と言った。彼はおそらくその時点で、自分の愛妾となってほしいと彼女に打診している。しかし彼女は後に、自分は彼の申し出に屈服していないと主張している(フランソワーズは友人にあてて"その者の利己心を導くことほど賢明なものはない"と書いた)。一部の歴史家たちは、フランソワーズの立場が非常に不安定なままであった当時、敢えて王を拒んだことに疑問を抱いている。1670年代の後半から、王は余暇の時間をマントノン夫人と過ごし、政治、信仰、経済を論じ合っていた。 1680年、王はマントノン夫人をドフィヌ(王太子妃マリー・アンヌ・ド・バヴィエール)の第二女官長とした。すぐ後にモンテスパン夫人が宮廷を去った。マントノン夫人は王へのよい影響を証明した。王の正妻である王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュは何年もモンテスパン夫人からぞんざいな扱いを受けてきたが、公然と、自分はこの時期ほど良く扱われたことはなかったと表明した。
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