宮廷の支配権を争う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 14:32 UTC 版)
「ジャン1世 (ブルゴーニュ公)」の記事における「宮廷の支配権を争う」の解説
1404年に死去した父の跡を継いでブルゴーニュ公となると、フランスで王妃イザボーと結んで政権を支配する従兄弟のオルレアン公ルイと対立、翌1405年3月に母も亡くなりフランドル伯となりパリへ行くことを決めた。折しも6月にカレーを包囲したもののフランス政府が援助を断ったことを機に、8月に臣従礼を取ることを名目に軍勢を連れてアラスからパリへ向かい、イザボーとオルレアン公はムランへ逃亡、2人から王太子を奪い取った無怖公は10月にオルレアン公と和睦したが、結果としてパリでオルレアン公と並ぶ権力者にのし上がった。その際、オルレアン公と政府の腐敗政治を攻撃して政治改革を標榜し、パリ市民の支持を得て歓迎された。以後無怖公は、政府の攻撃と改革を旗印にパリ市民を味方につけ、合わせて軍を動かし圧力をかける手法を活用していくことになる。 1407年に巻き返しを図ったオルレアン公を暗殺、フランドルへ逃亡したが、政府が自分の勢力を恐れて本格的に追及して来ないことに気付いた無怖公は翌1408年2月末にパリへ戻り、3月の公開弁論でオルレアン公こそが反逆者で自分の行為は正当防衛だと自己弁護を押し通して国王シャルル6世からの赦免を勝ち取る。1409年にはオルレアン公の息子で公位を継いだシャルルと和睦、王太子の後見人に収まり政府の実権を握った。 その間、無怖公は1408年7月にネーデルラントへ遠征、義弟に当たるバイエルン公兼エノー伯ヴィルヘルム2世の弟であるリエージュ司教ヨハンとリエージュ市民が対立し市民の反乱が勃発、9月までに無怖公は反乱を鎮圧して10月にパリへ戻った。留守中のパリはイザボーらオルレアン派が反撃を考えていたが、ブルゴーニュ軍が来ると逼塞、1409年の和睦まで目立った動きは無かった。 しかし、無怖公の強引な権力掌握に納得いかないオルレアン公は復讐を誓い、舅であるアルマニャック伯ベルナール7世やベリー公ジャン1世などを頼り、1410年にアルマニャック派を結成しブルゴーニュ派に対抗、翌1411年7月に武力衝突となり両派の対立が激化した。両派はパリの支配とシャルル6世・イザボー・王太子を奪い合ったが、イングランドの支援を取り付けた無怖公が同年10月にパリを奪いアルマニャック派を反逆者にするシャルル6世の命令も引き出して主導権を握った。 しかし1412年5月にイングランドとアルマニャック派の同盟が結ばれブルゴーニュ派は手を切られ、8月に一転してブルゴーニュ派とアルマニャック派が一時的に和睦したためイングランドが縁を切られた。1413年4月末にブルゴーニュ派の屠殺業者シモン・カボシュ(フランス語版)(シモン・ル・クートリエ)とパリ大学のピエール・コーションがパリ市民を扇動して暴動(カボシュの反乱(フランス語版))を起こすと、虐殺に反発した国王・王太子がアルマニャック派に救援を求め、8月にカボシュ・コーションらは追放、市民の統制に失敗した無怖公もフランドルへ退去した。この隙にパリを制圧したアルマニャック派がコンピエーニュ・ソワソンなどブルゴーニュ派の都市を陥落させたが、イングランドと無怖公の結びつきを恐れブルゴーニュ派とアルマニャック派は1414年9月にアラスで再度和睦した。内乱の最中に両派は再びイングランドに接近したが、アラスの和睦でイングランド援助の必要が無くなったため交渉は消滅、埒が明かないと見たイングランド王ヘンリー5世は1415年8月に内乱を好機と捉え百年戦争を再開・フランスへ侵攻して来た。
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