宮廷の混乱・悲劇的な晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/18 14:37 UTC 版)
「クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ」の記事における「宮廷の混乱・悲劇的な晩年」の解説
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこれらの輝かしい勝利ののち、すでに自身が老齢であることを悟り、彼はその身を休めようと考えた。 そして、1524年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは自身の6歳の息子ティルマラ・ラーヤに譲位することにした。彼は王位と権力、称号をすべて返上したうえで息子に与えて宰相となり、宰相であるサールヴァ・ティンマラサは顧問となった。また、その息子は大領主(ダンダナーヤカ)となった。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはティルマラ・ラーヤに位を譲ったのち、臣下としての敬礼を行い、新旧交代のすべてを終わらせると、王は大祝賀を行った。だが、8ヶ月にわたる大祝賀のさなか、ティルマラ・ラーヤは病で死んでしまった。 その死後、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは顧問となっていたサールヴァ・ティンマラサの息子がティルマラ・ラーヤに毒を盛ったという噂を聞き、王はこれを確信して憤慨した。彼はサールヴァ・ティンマラサと2人の息子を呼び出し、彼らの親戚や多数の長官が列席し敬礼しているときに、サールヴァ・ティンマラにこう話しかけた。 “ 「余は常にそちを余の偉大な友として考えてきた。(略)この王国はそちが余にくれたものである。しかし、余はそうしてくれたことに恩義を感じてはいない」 ” さらに、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは兄王ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤが死の間際、自身の眼を盲目にするよう命じた際、サールヴァ・ティンマラサがそれを実行せずに王を欺いたことを叱責した。 “ 「そういう次第で、そちは王(兄王)の命令を果たさなかった裏切り者だったのである。余が大いに目を掛けていたそちの子らも同様である。いま、余は余の子がそちとそちの子らが盛った毒で死んだと知った。よってそちたちを全員逮捕する」 ” クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは彼ら父子3人を投獄したのち、後任の宰相を決め、混乱の収束を図ろうとした。だが、獄につながれていたサールヴァ・ティンマラサの息子ティンマ・ダンダナーヤカが脱獄し、彼の親戚である長官の援助により、戦を仕掛けるようになったため、混乱は続くことになった。 結局、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの派遣した大軍により、ティンマ・ダンダナーヤカは捕えられ、再び投獄された。王国ではバラモンは処刑されなかったため、サールヴァ・ティンマラサ父子は盲目にされた。
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