混乱は続く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:20 UTC 版)
しかし、1954年6月15日、通学反対派が龍田寮そのものを廃止せよと訴えた。その後両者から入り乱れて陳情合戦ということになった。大達茂雄文部大臣も熊本県庁にきて両者から陳情攻めにあった。参議院文部委員会においても陳情合戦がおこなわれた。10月7日の参議院文部委員会での発言は 通学賛成派:龍田寮生は中学、高校には普通に通学しているのに黒髪小学校だけ通学できないのは残念だ。文教委員会の助言をお願いする。 反対派:恵楓園長の説明を聞いたが、あたかも法と科学の力で押さえるようにうかがわれた。すでにその時龍田寮から3名の発病をみている。桜山中学校はこっそり入学させたのだ。 PTA会長:まず啓発のための運動、地ならしが先行すべきで、地域住民が納得したうえでないと子供は幸福になりえない。 宮崎松記:らい予防は大きな国策である。らいの疑いのない子を親と同居させ感染させるのはしのびないので、収容して保育しているのが龍田寮である。教育の機会均等の上から解決すべきで、危険なものを通学させているとは思わぬ。全国的にみても他の寮では地元の学校にあたたかく迎えられている。 市教育委員長:根本的にはらい予防法から、医学的見地から、人道的、道義的観点から、の3点から考える。現段階では全員の通学は認められない。 なお、宮崎園長は反対派のパンフレットの療児からの発病については、寮内の発病でないと説明している。その後、市教育委員会は次年度の児童を入学させる(一部は外の学校や残留がある)解決原案を発表したが、反対派から拒否されてしまった。PTAの通学賛成派と反対派は真相発表の集会を開き、ある時は100メートルも離れていない所でおこなった。1955年(昭和30年)、入学通知書を出すと、反対派の3名の会員が市教育委員会前でハンガー・ストライキに入った。
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