混乱の要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 00:56 UTC 版)
後白河は強訴に対して強硬な態度で臨み、延暦寺を抑えようと試みたが、政権内部の足並みの乱れにより事態は迷走した。天台座主・明雲は早くから大衆の説得をあきらめ、公卿議定でも武士の派遣に消極的な意見が大勢を占めた。そして最大の要因が、平氏が強訴の鎮圧を拒否したことである。清盛が出家した際の戒師を明雲が務めた関係から、平氏と延暦寺は友好的な関係にあった。 武士が強訴防御に当たって出動を拒否するということは、白河・鳥羽院政期には見られなかった現象であり、平氏の実力の大きさが再認識されると同時に、後白河院政の脆弱さが露呈する形になった。後白河も自らの力の弱さを自覚していたからこそ、成親擁護に固執したと見られる。 後白河は「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ(やろうと心に決めた事は、人が止めるのも聞き入れずに必ず遂行する)」(『玉葉』寿永3年3月16日条)という性格であり、この強訴でもねばり強く意思の貫徹を図った。配流の話はいつの間にかうやむやとなり、解官も形ばかりで4月21日、成親は早くも権中納言・右兵衛督・検非違使別当に返り咲く。強訴で何の成果も得ることができなかったことは、延暦寺にとって大きな屈辱だった。延暦寺がこの恨みを忘れなかったことは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀で成親が逮捕された時、大衆が清盛に「敵を討っていただいたことは喜ばしい」とわざわざ使者を送って礼を述べていることからも明らかといえる(『玉葉』安元3年6月3日条)。 院と延暦寺の対立・抗争、延暦寺攻撃に消極的な平氏という構図は、安元3年(1177年)4月13日、延暦寺が加賀守・藤原師高の配流を求めて起こした強訴(白山事件)でも繰り返され、鹿ケ谷の陰謀への伏線となった。
※この「混乱の要因」の解説は、「嘉応の強訴」の解説の一部です。
「混乱の要因」を含む「嘉応の強訴」の記事については、「嘉応の強訴」の概要を参照ください。
- 混乱の要因のページへのリンク