鹿ケ谷の陰謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 05:29 UTC 版)
鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われたため、このように呼ばれた。近年では、平清盛によるでっち上げだとする説など解釈に諸説あり、「鹿ヶ谷の事」と著す学者もいる。
注釈
- ^ 行綱は藤原成親らから反平家の大将を望まれるが、平家の強勢と院近臣の醜態から計画の無謀さを悟り平清盛に密告したとされる。
- ^ ただし『愚管抄』によれば、清盛が福原を立つ前に行綱と会見していたという)。後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという(円はこの事件に関する記述については「一定の説は知らねども」と真相を確認した訳ではないとも記している)。
- ^ また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子(へいじ)が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。なお、この会合を比叡山攻撃の方針を確認した会合に過ぎなかったとする見解もある。多田行綱は明雲捕縛に失敗したという行きがかりがあり、会合の目的が延暦寺攻撃・平氏打倒のいずれにしても何らかの軍事行動に加わる立場にあったと推定される。
- ^ 下向井龍彦は清盛がこの命令をきっかけに平家と対立する院近臣層の排除に乗り出したと説く。一方、河内祥輔は後白河や院近臣に平家に対する敵対の意思が無かったとしても、命令出したことそのものを平家に対する陰謀と清盛が受け止めて院近臣に敵意を抱いたとする。
- ^ 後の治承4年12月11日におこなわれた日本で最初の仏教寺院への直接武力行使となる園城寺攻撃において、僧房などの宗教的な要素が低い部分に攻撃を限定し、堂塔への攻撃を避けることで問題回避を図ることになる。また、南都焼討は大衆との市街戦はあったものの、火災は失火によるものである。
出典
- 1 鹿ケ谷の陰謀とは
- 2 鹿ケ谷の陰謀の概要
- 3 経過
- 4 影響
- 5 史料
- 6 外部リンク
鹿ケ谷の陰謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
詳細は「鹿ケ谷の陰謀」を参照 後白河法皇と清盛の政治提携は続いていたが、この二者を橋渡ししていた建春門院(清盛の義妹)が安元2年(1176年)に亡くなると、両者の間に齟齬が生じていくようになる。そして安元3年(1177年)北陸の国衙と比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と院近臣が対立し、院近臣を守る立場にある後白河法皇は清盛に比叡山攻撃を指示したが、清盛はこれを拒否、逆に比叡山側の要求を通し院近臣の身柄を拘束するという手段に出る。これによって後白河法皇は比叡山の言い分を聞かざるを得なくなり、近臣の追放を許す結果となる(鹿ケ谷の陰謀)。 一方、その頃から高倉天皇が政治的発言権を強めるようになっていく。治承2年(1178年)、高倉天皇の元に入内させていた清盛の娘・徳子が皇子を出産。後継者となる皇子の誕生で、高倉天皇が退位して院政を敷く条件が生まれる。 しかし治承3年(1179年)、清盛の息子平重盛と娘の平盛子(近衛基実の妻)が相次いで死去。この二者の遺領や知行国を巡って当時の摂政松殿基房や後白河法皇と清盛の間に対立が起きるようになった。
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鹿ケ谷の陰謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)
安元2年(1176年)7月に建春門院が薨去したことで、今まで隠されていた後白河院と平氏の対立が表面化する。12月5日、頼盛は権中納言に昇進した。同日、藤原成範も権中納言となり、藤原定能・藤原光能が他の有力候補者を押しのけて蔵人頭に抜擢されている。彼らはいずれも院近臣であり、その昇進には後白河院の意向が大きく反映していた。後白河院と平氏が対立している状況で頼盛の昇進が実現したのは、平氏一門であるよりも後白河院近臣としての側面が大きかったことを物語っている。 翌安元3年(1177年)、重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、後白河院が福原を訪問したことで対立は緩和されたかに見えたが、4月に延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こすと亀裂は逆に深まっていく。後白河院は延暦寺に対して強硬策をとり、師高の父・西光の進言で天台座主・明雲を解任、伊豆国に配流した。延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪還したため、後白河院は福原から清盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じる。清盛はやむを得ず出兵を承諾するが、内心では事態の悪化を招いた後白河院と西光に憤りを抱いていた。 攻撃直前の6月1日、多田行綱の密告により平氏打倒の陰謀が発覚した(鹿ケ谷の陰謀)。清盛の怒りは凄まじく西光は処刑され、関係者は一網打尽にされた。『愚管抄』によると藤原成親が呼び出されて捕らえられた時、頼盛は重盛とその場に居合わせていた。重盛にとって義兄の成親が平氏打倒の首謀者だったことは衝撃だったが、頼盛も謀議に加わっていた法勝寺執行・俊寛が妻・大納言局の兄弟だったことから、厳しい視線にさらされたものと見られる。頼盛自身が陰謀に関与していたかは不明だが、その政治的立場は後白河に近く、疑われるだけの条件は整っていた。藤原成経・平康頼が赦免された時に俊寛だけが許されなかったのは、頼盛に対する威圧・牽制があったのではないかと推測される。
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