けんしゅん‐もんいん〔‐モンヰン〕【建春門院】
平滋子
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平 滋子(たいら の じし/しげこ、1142年〈康治元年〉- 1176年8月14日〈安元2年7月8日〉)は、日本の第77代天皇・後白河天皇の女御、皇太后。女院。高倉天皇の母(国母)。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。
注釈
- ^ 「若狭局故建春門院乳母」[1]
- ^ 『兵範記』嘉応元年4月12日条には、院号定の経過が記されている。大内裏の東南の門が全て使われていたため(禁忌とされる朱雀門を除く)、建春門(内裏の東門)・安嘉門(大内裏の北門)・殷富門(大内裏の西門)の門号が候補となり、一度使われた陽明門(大内裏の東門)に「新」の字を付けた「新陽明門院」、御所である法住寺殿にちなんだ「七条院」という意見も出された。兄の時忠は東三条院・上東門院が吉例であることから御所号に「東」の字を付けて「東七条院」、藤原隆季は同じく東三条院の例を追い、院御領の三条室町殿を滋子の御領に准じて「新三条院」を提案した。議論の結果、多くの賛同を集めた建春門院が宣下された。これが内裏の門の名称を女院号に採用した初例となった。
- ^ 平氏一門以外の家司の中には滋子の没後、後白河院の近臣に専念する者もおり、中原宗家のように治承三年の政変で反平氏側の人物として処罰された事例もある。
- ^ 『たまきはる』の作者。
- ^ この前大相国が、清盛と忠雅のどちらであるかは判然としない。清盛は主に「入道相国」「禅門」と記されているので「前大相国」は忠雅とするのが自然な解釈であるが、発言の内容から清盛の可能性もある。
- ^ 院政時代に親王宣下を受けるのは、余程のことがないかぎり原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみと決まっていた。以仁王の母・成子は後白河の寵愛深い妃だったがその身分はあくまでも典侍(女官)である。しかも以仁王は幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗したという過去を持つ。そんな以仁王には親王宣下を行う根拠がそもそもなかったのであり、本人がそれを承服しかねる理由もなかったのである。
出典
建春門院と同じ種類の言葉
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