ろくじょう‐てんのう〔ロクデウテンワウ〕【六条天皇】
六条天皇
しかし、1ヶ月後に父が死去すると、祖父後白河上皇の強い意向によって、後白河の皇子憲仁親王(高倉天皇)が立太子し、5歳にして叔父にあたる高倉天皇に譲位した。
二条天皇親政派と平清盛が推す後白河上皇の院政派との対立に翻弄された幼い天皇あった。
13歳の若さにして病を得てその薄幸な生涯を終えた。
第79代天皇 | |
天皇名 | 六条天皇 |
読み方 | ろくじょうてんのう |
名・諱等 | 順仁親王 |
読み方 | のぶひとしんのう |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 1165年から1168年 |
生年 | 1164 |
没年 | 1176 |
父 | 二条天皇 |
母 | 伊岐致遠の娘 |
兄弟 | □□□ |
配偶者 | □□□ |
皇子女 | □□□ |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 清閑寺陵 |
所在地 | 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 |
六條天皇 清閑寺陵
(ろくじょうてんのう せいかんじのみささぎ)
六条天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 16:11 UTC 版)
六条天皇(ろくじょうてんのう、旧字体:六條天皇、1164年12月28日〈長寛2年11月14日〉- 1176年8月23日〈安元2年7月17日〉[1])は、日本の第79代天皇(在位: 1165年8月3日〈永万元年6月25日〉- 1168年4月9日〈仁安3年2月19日〉)。諱は順仁(のぶひと)。
注釈
- ^ 『たまきはる』によると、承安3年(1173年)4月12日に発生した法住寺・萱御所の火災において、新院(六条院)が人に抱きかかえられて避難したとあり、後白河院と同居していたことが分かる。
- ^ 六条天皇生母の出自については諸書に異同がある。「大蔵大輔伊岐善盛女」[5]、「伊岐兼盛女」[6]、「伊岐吉盛女」[7]、「大蔵大輔藤原義盛女」[8]、「大蔵大輔伊岐宗遠女子」[9]。『山槐記』永暦元年11月15日条に「大蔵少輔伊岐善盛」との記載があるため、『本朝皇胤紹運録』による「伊岐善盛女」が正しいと考えられる[10]。
- ^ 藤原育子の出自について、『尊卑分脉』は左大臣徳大寺実能の娘で法性寺関白藤原忠通の養女となったとしているが、別の資料では忠通の実の娘だったともいい、育子を通して摂関家の近衛基実が外戚として六条天皇を後見したのは事実である。
- ^ 六条天皇と徳大寺家の関係については、生母の実家伊岐氏が徳大寺家の家司の家柄であることから、徳大寺家が伊岐氏に代わって事実上の外戚とみなされたとする見方があり、六条天皇即位直前に徳大寺実定が権大納言を辞任したことや六条天皇譲位の背景には清盛による徳大寺家排除の意図があったとする見方もある[11]。
出典
六条天皇(ろくじょうてんのう)
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