清閑寺陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 22:15 UTC 版)
山腹に4箇所ある平坦地の最上段(標高160m付近)に位置しており、宮内庁による公式形式は円丘。『聖光録』には南面の円墳と記す。拝所(標高137m付近)東側の石段を上り、高倉天皇陵脇の参道を通り、更に3つの石段を上った部分が平坦地(東西26m、南北16m、左下を欠いた長方形状)になっており、直径7mの円丘を中央に、間口12m、奥行10m余の南南西に面する方形に土塀を巡らし、石段の突き当たりに位置する南面中央に平唐門が設けられている。 安元2年(1176年)7月17日、六條院(六條上皇)が清閑寺境内にあった邦綱卿東山亭(中納言藤原邦綱の邸宅)で崩御すると、同22日に清閑寺小堂に葬られた。後に小堂は失われて所在も不明となり、江戸幕府の元禄・享保の諸陵調書でも、清閑寺境内に高倉天皇陵所はあるが、六條天皇陵所は不明とした。 谷森善臣が著した『山陵考』には「清閑寺の山の高倉院御陵の北後三壇許上のかた竹林のうちに、北南六十丈許西東百八十丈許の間平坦なる地あり」「土人法華堂とよふ」と記され、高倉天皇陵の北側後方・三段上の竹林内に地元民が「法華堂」と通称する平坦地があり、この山麓に代々住む猟師から、その竹薮で長さ5・6寸の腐食した鉄釘と屋根瓦の破片、蝋の塊を掘り出したと聞いた谷森は、この場所が「法華堂」旧趾で六條院を土葬した御堂跡と推定した。文久の修陵では当所を考定して修補を行い、竹薮に覆われた平坦地を切り開き、中央に小さく方形区画が造られて山陵本体に擬され、冂の字状に土塀を設けて南側に鳥居を築いた。また、竹薮に覆われた南斜面は階段状に整地されて参道が造られ、一段下の平坦地も切り開かれて拝所が設けられた。修陵期間は文久3年(1863年)9月から12月の4ヶ月間、費用は878両とされる。 明治28年(1895年)10月、清閑寺陵の修理起工のため、奉告勅使として掌典・岩倉具綱を参向させて起工奉告祭が行われた。陵内の再修理では円丘の陵墓を修造、鳥居を木製から石造に変更し、土塀も方形に改修して南面に平唐門を設け、明治29年(1896年)12月に竣工、修理竣工奉告勅使として掌典・粟津職綱を参向させて竣工奉告祭が行われた。 なお、津久井清影(平塚瓢斎)が著した『首註陵墓一隅抄』では「或云今称二高倉帝ノ陵ト一所即小堂ノ跡ニメ而此帝ノ陵也」と現在の高倉天皇陵が小堂の跡で六條天皇陵であると記している。
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