後清閑寺陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 22:15 UTC 版)
山腹に4箇所ある平坦地の最下段(標高145m付近)に位置しており、宮内庁上の形式は方丘。拝所(標高137m付近)から47段ある石段を上った部分が平坦地(東西24m、南北21m)になっており、間口20m、奥行15mの南南西に面する方形に土塀を巡らし、石段の突き当たりに位置する南側に平唐門が設けられている。現陵は陵域の中央西寄りにあり、一辺4.5m、高さ0.5mの方形の土壇で、法華堂の基壇の一部の遺構である可能性が高いとされる。『聖光録』には、高倉院陵は高さ2尺(約60cm)、2間半(約4.5m)四方、上方に樫の大樹があり、陵側の宝篋印塔は小督の墓と謂うと記している。 治承5年(1181年)1月14日、高倉院(高倉上皇)が六波羅池殿で崩御した際、遺詔により同日夜に清閑寺の小堂へ遷されて殯が行われ、東山山麓の火葬所で火葬された後、法華堂に葬られた。文献には高倉院法華堂、清閑寺法華堂等とも記され、高倉院法華堂には所領が与えられ、供僧を任命して守陵祭祀を行わせていた。後に法華堂は失われたが、寺僧による祭祀は継続されており、元禄の諸陵探索でも所在が明白で、幕末は聖護院宮の管理下にあった。 かつては木柵で囲われて東側に土塀と棟門が設けられ、参道は清閑寺寄りに山道が設けられていた。文久の修陵で、基壇の周囲に石柵を設けて南に石門を配し、元の柵を撤去して土塀で囲われた。また、竹林だった南斜面が切り開かれ、新たに石段と参道が設けられている。修陵期間は文久3年(1863年)9月から12月の4ヶ月間、費用は772両とされる。明治29年(1896年)12月、六條天皇清閑寺陵と区別して現陵号が設定された。
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