高倉上皇とは? わかりやすく解説

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高倉天皇

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高倉天皇
高倉天皇像
宮内庁蔵『天子摂関御影』より)

即位礼 1168年4月29日(仁安3年3月20日
大嘗祭 1168年12月20日(仁安3年11月22日
元号 仁安
嘉応
承安
安元
治承
時代 平安時代
先代 六条天皇
次代 安徳天皇

誕生 1161年9月23日応保元年9月3日
八条河原口盛国
崩御 1181年1月30日治承5年1月14日)(21歳没)
六波羅池殿
大喪儀 1181年1月30日(治承5年1月14日)
陵所 後清閑寺陵
追号 高倉院
(高倉天皇)
憲仁
元服 1171年2月9日嘉応3年1月3日
父親 後白河天皇
母親 平滋子
中宮 平徳子(建礼門院)
子女 安徳天皇守貞親王後鳥羽天皇ほか
皇居 閑院・五条東洞院殿など
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高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日応保元年9月3日〉- 1181年1月30日治承5年1月14日〉)は、第80代天皇(在位: 1168年3月30日仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日治承4年2月21日〉)。憲仁(のりひと)。

後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇後鳥羽天皇らの父。

略歴

母・平滋子平清盛の妻・平時子の異母妹であり、政界の実力者・清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、まだ皇子のなかった二条天皇の後継に擁立する動きがあり、誕生直後の9月15日、叔父の平時忠と清盛の弟・平教盛は二条天皇により解官されている。この当時、滋子は身分が低かったため、長寛元年(1163年)に清盛の娘で近衛基実の妻である平盛子猶子となっているなど、早くから平家と密接な関係に置かれていた[1]

永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)の3歳の年長であるにもかかわらず、仁安元年(1166年)10月10日、皇太子に立てられた。2年後の仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇をわずか5歳(満3歳)で退位させ、自身が8歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷いた。

承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘(つまり従姉に当たる)平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える。治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、同年12月15日には皇子を早々に皇太子とした。

翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、平清盛の孫にあたる安徳天皇に譲位太上天皇となり、院政を開始するが間もなく病に倒れ崩御した。宝算21。

後白河院と平家の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平家一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説や、後白河院がこれを嫌って自分の皇子(天皇の異母弟)を天皇の養子にして譲位させようとしていたとする説[注 1]も出ている[注 2]

年表

※日付=旧暦

日付 年齡 出来事 備考[注 3]
永暦2年(1161年) 9月3日 1 平盛国宅降誕 巳刻上皇皇子誕生、母儀故兵部大輔時信女、上西門院女房小弁局、母故民部卿顕頼女也、(『山槐記』同日条)

巳剋、於八条河原右衛門尉盛国宅降誕、読書長光朝臣、自余事省略、(『師元記』同日条)
永万1年(1165年) 12月25日 5 親王宣下、賜名憲仁 院第三皇子被下親王宣旨、憲仁、母故兵部大輔平時信女、号東御方勅別当平大納言、於法住寺殿有此事、(『顕広王記』同日条)
仁安1年(1166年) 9月6日 6 於東山殿立太子定 今日於一院殿上、東山、有立太子定、摂政以下院司公卿十餘人参入、院宣之後別当内蔵頭教盛朝臣依摂政命、覧日時勘文、次被定雜事、権中納言資長朝臣執筆、次覧了奏聞云々、今度雜事併被准行康和例、彼年権中納言匡房執筆、於白川院殿上有定云々、(『兵範記』同日条)
10月5日 高倉殿行啓[注 4] 若宮行啓北政所御所高倉殿、院御車、殿上人廿餘輩前駈、右衛門督扈従、(『兵範記』同日条)
10月10日 於東三条殿立為皇太子 此日上皇幷若宮渡御東三条、依可有立太子事也、供奉御幸、直衣、出衣、剣、着深沓、於東三条、摂政遅参之間、在若宮御車後也、依召余褰御車簾、雖有右大臣、殊所召余也、下御之後各昇候、院御車被寄東中門廊、若宮御車被寄北中門云々、供奉公卿・殿上人被差分両方云々、余退出、秉燭之後参内、余今夜被任傅也、大夫清盛卿、権大夫邦綱卿、前参議、如何々々、権亮右中将実守朝臣、学士式部大輔永範朝臣、大進光雅知盛、小進棟範等也、余・大夫・権大夫等、於弓場殿、中門也、奏事由拜舞、次参東宮、左府已下於左府已下於南庭拜舞、次余已下宮司等、於東中門、東三条也、外奏慶由、此後余退出了、不見節会幷本宮事、仍不記之、須候節会座、又始終可祗候本宮也、而所労之上聊有子細云々、此又愚意不及、莫言之、(『玉葉』同日条)
以内大臣九条兼実為東宮傅、権大納言平清盛為東宮大夫
10月28日 賜見平盛子故摂政近衛基実 今夕北政所令参春宮給、網代車、諸大夫八人着衣冠、為前駈、雲客四五輩扈従之、(『兵範記』同日条)
11月3日 土御門東洞院第行啓 此日、申慶賀於所々、是依去月廿一日給兵仗也、申刻許着束帯、螺細剣如恒、参院、土御門東洞院第、邦綱卿家也、今夕東宮始可有行啓、仍今朝上皇所渡御也、進中門、付別当左京大夫宗隆朝臣奏事由、帰来仰聞食之由、余拜舞了、定隆来告召由、余昇自中門廊外方、参御前、不敷円座、如何、小時退出、参内、進弓場殿、付左近少将定能朝臣奏事由、拜舞、依無召不参御前、則参中宮御方、付大進朝親啓事由、拜舞、為母后舞踏也、依無召不参御前、次参東宮、東三条、今夜有行啓、余可供奉也、於西中門、付亮教盛朝臣啓事由、再拜、登自中門参着殿上、右大将忠雅卿以下、公卿五六人許在座、頃之右中弁時忠来、余問云、行啓遅々如何、時忠答云、大進光雅渡御帳了、只今可帰参、其後可有行啓云々、又云、大夫相共可勤仕御車寄者、余暫起座、摂政被参、頃之先被参院御所了、次公卿列立南庭、北上東面、此間着寄御車於寝殿南階、次陰陽助泰親朝臣奉仕反開、昇自西渡殿、入寝殿西面妻戶参上、暫而退出、出納給禄、次権亮実守朝臣取御剣置御車、次余・大夫相共取御几帳・屏風等立之、次乘御了、女房候御車、此間、公卿為騎馬前行、余於西渡殿下着靴、前行御車前、大夫在余前、次於西門外騎馬、行列如恒、在指図、経西洞院・二条東洞院等、到上皇御所西門外、余下馬、暫立門中、公卿等本自列立中門内、両亮・学士等在門内、次時忠朝臣来臨、余云、大夫先可申事由欤、時忠云、尤可然、則入中門内、帰来云、康和例、大夫奏事由後御車入御、而右将軍不然由被申、仍不可有其儀、早可入御之由有御定云々、余云、縦雖先例存、於御定者不能左右者、此事未得其意、何度例哉、慥不覺悟、可尋也、則入御、余前行加列、御車至南階下、于時余離列、昇自西対代南階、取几帳等、祇候上皇御簾中、下御了、余着履更加列、次亮教盛朝臣問之、余以下名謁等如恒、了各昇、公卿等着殿上座、余依所労更発、触示其由於時忠退出、今夜上皇可遷御鳥羽北殿也云々、(『玉葉』同日条)
12月5日 御着袴定 此日有旬儀、亦東宮御着袴定也、依所労不参旬、相労晩頭参東宮、以殿上外座、今日不参旬、参東宮、專不可然欤、然而依言別院宣扶所労参也、公卿等少々徘徊中門廊辺、下官招大進光雅問云、亮可書定文欤、相存哉如何、光雅云、教盛朝臣皆所相存也者、頃而左大臣参着奥座、相次右大将忠雅・源大納言定房・大宮大夫公保・三条中納言実房等参入、下官召亮教盛朝臣仰云、可奏事由、教盛云、上皇未渡御、右大将云、御幸未刻之由奉之、而于今遅々如何、為奇云々、即将軍起座了、此間寒風頻扇、殿上燈消了、座上下挙之、上方消也、余使蔵人召指油、小時右大将復座云、已上皇渡御、教盛申事由、只今参也云々、此間別当隆季・新中納言資長・春宮権大夫邦綱・左大弁雅頼等参加、自公卿多以参仕、然而依座狭不着欤、即頭弁来云、事具了欤如何、余云、以亮教盛朝臣奏事由、早々相待帰来之間也、事早具了者、頭弁帰参畢、即教盛来仰云、早可始者、使余仰云、可令勘日時者、教盛退帰、令泰親朝臣勘申之持来、入筥余取之加一見、如本入筥置座前、次召教盛、仰紙筆可持参之由、即持参之、候端座末、此間蔵人立切燈台於亮座前、燭、次進例文、長治定文也、自座末次第取上之、末座公卿一両人披見之、不知案内欤、右大将密語云、於例文者專不可披見欤云々、右大将竊示云、教盛皆書儲所懷中也、下官見了、示是定可書之由返下之、猶可与奪也、然而執筆随与奪、推書与奪也、仍雖書儲、端一両行ハ尤当度可書欤、仍返下也、猶非穏便欤、次教盛朝臣気色于余、々目許之、教盛書了、又取上之、今度公卿皆披見之、余見之与左大臣、々々々取之、一見返余了、々加入日時、召教盛朝臣授筥、仰可奏之由、小時帰来与余、々即返下亮了、次余退出、依所労殊無術所忩罷出也、
択申、御着袴日時
今月廿二日辛卯、時午、
仁安元年十二月五日、陰陽助安倍朝臣泰親、(『玉葉』同日条)
12月22日 於東三条殿着袴 今日東宮御着袴也、於東三条被行之、上皇自今朝所渡御也、仍未刻許着束帯、蒔絵剣、長治永治両度共有行幸、仍無異儀、今度上皇被奉結御腰之間、必不可帯螺鈿欤、相尋人々之処、各々案不同欤、但摂政被命云、可用蒔絵者、仍随彼儀也、但帯螺鈿之人少々相交欤、入自西門、候院御方殿上、摂政左大臣内大臣・大納言定房・中納言公保光忠隆季実房宗家資長等在座、不居饗饌、又無盃酌、於東宮殿上可有之故也、小時頭弁時忠朝臣来召、々起座参上之間、頭弁云、可令褰御簾給也、是上皇令移御着袴之間、可褰御路簾云々、者、余此次問云、献物誰人可受取哉、時忠云、膳部可取也、余云、今度無行幸、若准御賀例、院司可取欤如令、時忠云、尤可然、但已被載式了云々、此事不可然欤、雖載式有違失者、争不被直行哉、然而余不能執論、即入自寝殿南庇東第四間、褰東烏居障子御簾、着袴之後也、東第二間西柱下也、上皇令移座給了、余垂御簾、経南簀子、候東宮御方殿上、須暫候テ、上皇帰入給之時、褰御簾之後可退也、而早退、失也、源大納言雅通・参議光隆邦綱雅頼親範・従三位顕広等在此座、豫居、饗饌、暫而大進光雅召邦綱卿、即件卿起座参上、為東宮御前物陪膳云々、其後、内大臣已下諸卿等、廻北面、俳個中門廊辺、余召大進光雅仰云、献物催某哉、光雅云、皆所催儲也、次余起座、此間右大将忠雅密語云、可弾琵琶欤、余云、相扶所労参入、始終難儀候座、忠雅云、為用意所催儲実宗也、立東中門下、此間院御随身等、取松明立南庭、次左府依召候南簀子敷、使随身竊伺之、帰来云、已者座者、次余揷笏於腰、不指得之間、雅頼卿揷之、取献物、大進光雅伝受之、出幔門、北、進前庭、当南階西間程而立、北面、無揖、内大臣以下次第取之、経列後立西、東上、北面、各不揖、次侍臣立列後、各立定之後、左府被問欤、慥不聞及、余推量申云、御子ノ宮ノ奉リ給フ御贄、微音申之、傍人ニ三人許聞程也、左府仰詞不聞、余亦推量召膳部、詞、カシハテ、音程如初、二音召之、膳部屢以不参仕、亮教盛朝臣遣御随身、令催東方、余云、自西可参也、別当云、西廊方令催儲也、即膳部五六人許参入、自西方取公卿之所持之献物、乍立授之也、余給畢抜笏、以下又如此、各給了、膳部退去、次余揖離列、経前出西透廊之間、頭弁時忠云、可候御遊座欤、余云、持病發動所忩退出也、尤有恐、可然之樣可被披露者、時忠云、早可披露者、即出自西四足退出、不見其後事、(『玉葉』同日条)
12月24日 遷御[注 5]土御門第東三条第燒亡 東宮御在所東三条第燒亡、儲君遷御邦綱卿土御門亭、(『百錬抄』同日条)
仁安2年(1167年) 1月20日 7 法住寺殿行啓為朝覲故也 此日東宮行啓于御所、法住寺御所也、自去夜上皇所還御也、蓋為拜覲也、(『玉葉』同日条)
2月11日 法住寺殿行啓 又東宮渡御上皇御所、法住寺殿、(『玉葉』同日条)
4月4日 渡御七条殿自法住寺殿 今夜上皇・青宮相共、自法住寺御所渡給七条御所、上皇下御所、春宮下御所、御幸頗密儀也、(『玉葉』同日条)
4月30日 賀茂祭 賀茂祭也、近衛使少将光能、東宮使亮教盛朝臣云々、(『玉葉』同日条)
5月25日 行啓 申刻自東宮蔵人来催云、今夜可有行啓、可令参仕云々、依有所労、如只今者難参、及夜陰得減気者、答可参之由了、其後頗有平愈気、仍俄出立之間、僕従各以遅参、仍行啓以後参仕、及深更退出、(『玉葉』同日条)
9月30日 行幸大内 参東宮、去夜行幸大内、(『玉葉』同年10月1日条)
10月8日 御馬御覧[注 6] 参東宮、有御馬御覧事、帯刀不候也、仍余隨身乘也、(『玉葉』同日条)
10月10日 大般若経供養 今日於東宮被供養大般若経、自今夜以六口僧、長日可有御読経云々、日別一人相替可勤仕云々、申刻着束帯、無文帯、参上東宮、先於中門辺招光雅五位蔵人東宮大進、奉行也、問出居有無、答云、今夜不然云々、長治二年六月廿五日、鳥羽院春宮御時有此事、而出居無之、仍今度出居欤、尤可然、光雅云、先例御願趣、権亮所仰也、而今度各称所労・故障不参仕、為之如何、余云、先例如何、如此事可依先例也、光雅云、先例不分明、但宮司上﨟仰欤、余云、為奉行之上、宮司上﨟也、早可仰光雅者、次着殿上座、公卿五六輩自本在座、余召光雅、問事具否、申僧侶皆参之由、即仰可申事之由、暫帰来云、申事由、仰云、可令打鐘、光雅退了、則余以下着御前座、中宮権大夫定房・三条中納言実房・中御門中納言宗家・春宮権大夫邦綱・左兵衛督成範・三位雅賢等着之、次僧侶参上、廿口、次導師禅知法師、登礼盤打磬、公卿置笏、次唄、此間童堂子分花筥、次散花、堂童子收筥退出、次導師啓曰、此間大進光雅来臨余前解立、余示之、光雅就礼盤下、仰御願趣、次揚題名、次説法了、次導師被物、或先行香、今夜為先被物、仲恭権大夫取之、次呪願三礼、次行香、春宮綱所不参、堂達分輪引導之、如恒、余・中宮権大夫・中御門中納言・春宮権大夫・左兵衛督・藤三位雅賢、六角宰相等、一人不足、侍従通資加之、火虵取奉行蔵人泰経、行香了、僧侶退下、次公卿下、余参御前、次退出、(『玉葉』同日条)
10月18日 御悩 未刻許向左府亭、言談之後参八条、及昏参治部卿源宰相左兵衛督等祗候、頃之殿参給、又大弐卿参仕、東宮聊不豫事御云々、(『愚昧記』同日条)
12月1日 賜見平盛子白河殿准后 准后之後依吉日初令参春宮給、可候御車後騎由、自被仰下之故也、(『兵範記』同日条)
12月7日 朝覲行啓定 今夕一院御仏名、其次有春宮朝覲行啓定云々、(『兵範記』同日条)
12月9日 御書始[注 7] 今日東宮御書始云々、依無催不参、伝聞、事了、公卿着殿上、有五献云々、一献左少将脩範持参盃、二献亮教盛、三献権大夫邦綱、四献中御門中納言宗家、五献源大納言雅通、大以腹立、一大納言如此、勧盃称不勤由、昇長押上之後取盃、頗以不足言云々、五献了給禄、公卿列立拜舞云々、(『愚昧記』同日条)
12月25日 御仏名[注 8]、是日、御悩 今日東宮幷女院等御仏名、先参東宮御所、今朝聊御不豫云々、御仏名之所西御所云々、仍参其所、已始畢、事了参女院、了退出、(『玉葉』同日条)
仁安3年(1168年) 1月6日 8 法住寺殿朝覲行啓 今日有東宮朝覲行啓事、(『玉葉』同日条)
2月19日 於閑院第摂政松殿基房受禅 今日可有御讓位事、(中略)次参閑院、此間春宮、御諱憲仁、春秋八歲、母女御滋子、自東山七条御所被渡行啓此殿、(『兵範記』同日条)
2月22日 御即位由伊勢大神宮奉幣定並御即位定 仰云、即位由告伊勢太神宮奉幣日時令勘申、即令定申即位事、(『兵範記』同日条)
2月28日 奉六条上皇太上天皇尊号、是日、開関[注 9]解陣[注 10] 今日有開関幷解陣事云々、又尊号事、上卿藤大納言、(中略)見昨日尊号詔、大内記光範作之、其詞曰、
詔、朕以幼冲、忝承叡託、皇縁之寄不軽、難委朝政於賢佐、童蒙之心未決、何忘夕惕於眇身、上欽祖宗、下慙黎元、太上天皇、徳法三才、道光四表、諸夏皆致就日之望、率土旁通嚮風之跡、而忽抽脱履之思、更謝守文之尊、辞宸居於帝宮、富春秋而養志、訪仙遊於姑射、尋水石而閑心、至矣将聖之道、讖介大縁者欤、抑礼有恒法、国存旧規、列代彝範、何不率用、宜上尊号、為太上天皇、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、
仁安三年二月廿八日、有御画、摂政書之、(『玉葉』同月28、29日条)
於石灰壇御拜伊勢神宮
召侍読藤原永範[注 11]読『後漢書』
2月29日 晦日御祓、神祇官供御贖物
3月1日 御燈御卜[注 12]
3月3日 停御燈依受禅有惮也
3月8日 被発遣伊勢神宮奉幣使奉告御即位由
3月9日 礼服御覧
平滋子後白河上皇女御立后兼宣旨
3月11日 遷御内裏自閑院第
上六条上皇尊号御報書
女官除目
3月15日 御即位叙位
神祇官御即位御祈
3月20日 於大極殿行即位之儀
尊平滋子為皇太后
3月26日 平滋子初参内
立后後八社奉幣
4月1日 [注 13]、平座[注 14]
4月3日 石清水臨時祭[注 15]
4月4日 広瀬龍田祭[注 16]
4月5日 平野祭[注 17]
4月6日 梅宮祭[注 18]
御即位後女叙位
4月7日 万機旬[注 19]、出御南殿
4月8日 御灌仏[注 20]
4月9日 遷御閑院第
4月14日 稲荷祭[注 21]
4月18日 賀茂祭[注 22]
4月20日 祈年穀奉幣[注 23]
4月21日 吉田祭
4月28日 大嘗会国郡卜定[注 24]、以近江国甲賀郡為悠紀、備中国賀陽郡為主基
定大嘗会検校等
4月30日 被発遣即位由山陵使[注 25]
5月8日 被定発遣即位由奉幣使日時
被定発遣宇佐使[注 26]日時
5月10日 季御読経始
5月13日 季御読経結願
除目叙位
5月16日 大嘗会左右行事所[注 27] 史章生来云、大嘗会左右行事所今日被始之、
悠紀式部省 、主基陰陽寮、
左中弁以下行事官等見于定日交名、 (『兵範記』同日条)
5月21日 廃朝[注 28]三日依道恵親王[注 29]薨奏故也 自今日廃朝三日、下御簾、不奏事云々、三井寺長吏六宮去月廿五日薨給事也、
奏文書樣
太政官謹奏、
無品道恵親王、
右親王去月廿五日薨、廿七日葬、儀制令云、二等以上親薨、皇帝不視事三日者、仍録事状謹以申聞、謹奏、
仁安三年五月廿一日、(『兵範記』同日条)
5月28日 被発遣宇佐使
6月4日 被発遣廿二社奉幣依天変及世間疫病也
6月13日 還御内裏
被発遣祈雨奉幣使[注 30] 神祇官、
差進雨請奉幣使事、
丹生使正六位上亀卜長上卜部宿祢兼茂、
貴布祢使正六位上行小史斎部宿祢明茂、
右依宣旨、差進如件、
仁安三年六月十二日、 権少史伊岐宿祢致貞、
大祐斎部宿祢明友、
伯従四位下兼行出雲権守顕広王

陰陽寮、
擇申可被奉遣祈雨御幣使於丹生河上貴布祢社日時、
今月十三日、癸卯、時午二點、
仁安三年六月十三日、 漏剋博士安倍朝臣経明、
主税助安倍朝臣時晴、

天皇詔旨、掛畏某大神広前、恐美毛申給波久と、播殖之時與利雨澤順旬、農業可如意、依例令祈申給布古と、先畢、而去月晦與里、炎旱之気殊熾尓之氐、田園殆及焦損奴倍志と聞食、驚古と無極、年若不登奈良波、民其如何加世牟、只大神御恵、依忽令施嘉樹、遍可期豊稔支なりと所念行氐な牟、故是以、吉日良辰擇定、官位姓名差使、礼代御幣令捧持、黑毛御馬牽副、奉出賜、掛畏大神此状聞食、連垂感応礼氐、興致雲雨之氐、自今以後、收獲末氐尓、旱蝗不聞、稼穡茂盛尓之氐、天皇朝廷、宝位無動、常磐堅磐、夜守日守、護幸奉給倍と、恐みも申給波久と申、
仁安三年六月十三日、

左弁官、下大和国、
使正六位上亀卜長上卜部宿祢兼茂、従三人、執幣夫一人、
右権中納言藤原朝臣資長宣、奏勅、為祈雨奉幣帛於丹生川上社、使発遣如件、経彼之間、依例給食馬者、国宜承知、依宣行之、
仁安三年六月十三日、少史中原朝臣季能、
右少弁藤原朝臣、

左弁官、下山城国、
使正六位上神祇少史斎部宿祢明茂、従三人、執幣夫一人、
右権中納言藤原朝臣資長宣、奏勅、為祈雨奉幣帛於貴布祢社、使発遣如件、経彼之間、依例給食馬者、国宜承知、依宣行之、
仁安三年六月十三日、右少史中原朝臣、
右少弁藤原朝臣、(『兵範記』同日条)
6月20日 摂政松殿基房一上表、請辞摂政、勅答不許 摂政 従一位基房廿五 六月廿日上表、初度、不許、(『公卿補任』同年・藤基房条)
6月26日 還御閑院自内裏 今日自大内還幸閑院云々、(『愚昧記』同日条)
6月29日 節折[注 31]、大祓
平時信贈正一位・左大臣依外祖父故也 正五位下平朝臣時信、緑紙、
右可贈正一位、
中務、神祇惟朗、義佩韜光、昔是在朝為忠直之臣、今則於朕為外祖之儀、存殁雖異、褒崇其同、宜導餝終之礼、用光加□之栄、可依前件、主者施行、
仁安三年六月廿九日、

無位藤原朝臣祐子、
右可贈正一位、
中務、清華垂範、琬琰在心、桃李思粧、昔春早過、松柏望色、旧煙惟深、宜贈寵章、式賁遊隧、可依前件、主者施行、
仁安三年六月廿九日、

詔、祖以子貴功以徳酬、此則春秋之合典、古今之彝倫也、朕外祖父故兵部権大輔正五位下平朝臣、識量蓄器、蛍輝於珪璋、節操有心、論貞於松柏、外祖母藤原氏、伝聞訓而稟茂棘之芳胤、満婦徳而遺采蘋之淑誉、俱属運謝空従頎逝、不見栄貴於宮掖之花、早隔雲煙於杳冥之路、前事聞之、朕甚慟哭、於是尊宗之道襟抱未忘、縦異時代何愆朝章、宜降崇号於紫泥、式照光耀於黄壤、外祖父可贈左大臣正一位、外祖母可贈正一位、普造遐迩、俾知朕意、主者施行、
仁安三年六月御画日、廿九日三字、

天皇詔旨良方止、故兵部権大輔平朝臣詔信止勅命聞食宣、
尊外祖追餝給、礼典所存奈利、故是以左大臣官、正一位贈賜崇賜勅命聞食宣、
仁安三年六月廿九日、

天皇詔旨良方と、故無位藤原氏偣と勅命聞食宣、
尊外祖母追餝給、礼典所存奈利、故是以、正一位贈賜崇賜勅命聞食宣、
仁安三年六月廿九日、黄紙、(『兵範記』同日条)
藤原祐子贈正一位依外祖母故也
7月2日 鳥羽天皇国忌 鳥羽院御国忌、(『兵範記』同日条)
7月7日 乞巧奠[注 32]、御遊具[注 33]於清涼殿東庇曝涼 内裏御遊具於清涼殿東庇任例被涼、於東庇乞巧奠如此、蔵人基光奉行、(『兵範記』同日条)
7月10日 院殿上朝覲行幸定 今夕於院殿上有朝覲行幸定、摂政左大臣皇太后宮大夫・中納言隆季実房実国忠親兼雅・参議成頼・左兵衛督成範・右大弁実綱等参会、別当左少将脩範朝臣令勘申日時、次依上卿命啓皇太后宮上皇籠御今熊野、仍有儀被啓皇太后宮云々、中納言忠親執定文筆云々、(『兵範記』同日条)
7月11日 六条上皇尊号御報書勅答 上皇御辞書、
伏見詔書、敢非雅意、何以幼沖不敏之性、猥忝太上立徳之名、況乎惶馭俗於秋駕、追脱屣於虛舟、守宝位而四廻、誰聞薰風之声、加尊号而一旦、忽驚紫泥之色、称謂之美、無益于休閑、崇重之儀、不堪于軽薄、縦有旧規、可無所据、早罷上皇之峻号、令遂下愚之懇懷、謹言、
仁安三年三月十一日、
作者式部大輔永範卿、
清書中宮大進光長、
使院別当権大納言定房卿、

奉答上皇辞号、
謹言、忽奉駿命、推謝尊名、驚怖之至、意緒易紊、夫前聖之垂規者、後哲之所鑑也、国典既有跡、徽号何為踰、伏以監国守器之始、纔送夏暦之三載、堯讓臨民之今、偷慕舜日之再中舂昧之甚、当餘熱而心寒、兢惕之深、履薄氷而股戦、謬忝受禅之寄、謹献称謂之崇、而堅抽撝挹、更賜辞章、縦欲檀閑伴於白雲、豈敢忘厚礼於粉澤、願廻聖慮勿悍、愚執、諱、謹言、
仁安三年七月十一日、諱、謹言、(『兵範記』同日条)
7月12日 長日御祈[注 34] 今日公家被始行長日御祈等、(『兵範記』同日条)
7月16日 遷御閑院自内裏 今夕可遷幸閑院、(『兵範記』同日条)
7月17日 祈年穀奉幣 巳剋参内、行水解除、午剋権大納言公保卿・参議家通朝臣参着左仗、次召弁、下官参軾、兼依奉職事仰、直着端座、令敷軾召弁也、仍蔵人大進雖進仗辺、不仰奉幣事、被仰可令勘申祈年穀奉幣日時由、(『兵範記』同日条)
7月19日 堀河天皇国忌 今日尊勝寺御国忌如例、左少弁為親奉行、上卿中宮権大夫、(『兵範記』同日条)
7月21日 摂政松殿基房二上表、請辞摂政、勅答不許 午後依召参殿下、三条殿、有上表事、摂政第二度、(『兵範記』同日条)

摂政 従一位基房廿五 七月廿一日上表、二度、勅答不許、(『公卿補任』同年・藤基房条)
7月25日 斎宮卜定 斎王卜定事、蔵人大進光雅、
大嘗会事、同左衛門権佐経房、同御禊事、同治部少輔兼光
已上可奉行之由、且伺御気色与奪了、(『兵範記』同日条)
大嘗会並同会御禊定
治承5年 1月9日 21 御悩漸重 又語新院御悩子細、御面時々令腫給、御腹御満動、欲痢止、又雖為□□□、好薄衣、厭暑気給云々、又御声頗変、例大略無其憑事也、但心神不異尋常云々、(『玉葉』同日条)
1月12日 召阿證房上人、受戒 人告云、新院御悩危急御云々、即進使者、問邦綱卿、及兼光朝臣等、又以書問女房、數刻之後、帰来云、日来御無力殊太、而今日殊有御辛苦、仍阿證房聖人召、有御受戒、其後頗有御減云々、又被行御占之処、明日明後日殊可慎御云々、凡今五六日之內、大事可出来欤云々、(『玉葉』同日条)
1月13日 御悩危急 左大将参法成寺修正、先参院御堂、他人不参云々、大将□須明□参此之間、日々風病更発、今日□有□隙所参入也、余着烏帽、直衣、参院御所近辺、邦綱卿直盧、引入車於門内立榻、招出邦綱卿及兼光朝臣等、問御悩之子細、余依脚気不快、日来籠居、猶行步不可叶、仍乍懷不参入、而昨日及危急御之由、有其聞、仍今朝、若大漸事出来者、奈後悔何、仍志之所之、参近辺欲入見参、是則深存忠之故也、邦綱卿先出来、伝勅云、病至而重、命在旦暮、遂今一度不面謁之条、殊遺恨思食者也、扶病強参上、尤悦思食者、奉詔旨之処、不覚之涙浮双眼者也、大納言語云、今夜欲被始行五壇法、用途不叶之上、借多辞退之間、明日可被行云々、凡御有様、於今者、一切無其憑、御面手足頗腫給、又殊令厭熱気給遥去火気、薄御衣、猶以為重、身体更不叶御心、御心但御正念一切不違給、起日叡慮有臨終之御沙汰等云々、余問惜命給哉否、密語云、深有其御心、因茲、雖不令勘灸治給、已及數十所了云々、聞此事、弥悲歎難忍、余云、太神宮・八幡、殊可有御願、又可被行尊星王法也、但事体決定可有危者、御臨終之沙汰、不可有他事、近召有道心之僧徒、常可被演説往生極楽之至要也、如此事、近臣之男女房等、偏成忌語、不申出欤、是極愚事也、此等条々、可早被申行者、頃之、納言帰参了、相次兼光来、語御悩子細、不異邦綱卿之所言、(『玉葉』同日条)
1月14日 於六波羅泉殿崩御、追号高倉院、葬清閑寺 寅刻人告云、新院已崩御者、依不知実否也、相尋之処、卯刻、使帰来云、事已一定、丑終寅始程事云々、欲営参之処、日来黏病廗、夜前参門外、風冷相侵、心神殊悩、仍令参大将、出立之間、自然及巳刻、直衣垂纓如例、不能謁女房、只蹔候公卿座、先是、人々五六人祇候云々、未刻帰来云、御葬今夜被用最略儀、隆季卿、兼光朝臣等奉行云々、今夜御斎会終、入夜被始行、上卿一人不参、右兵衛督家通・左宰相中将実宗等参上、以参議用上卿代官、古今未有例云々、鎮善勤真言院法、可令諸寺修正□□行之、(『玉葉』同日条)

未明巷説云、新院已崩御、依庭訓不快、日来不出仕、今聞此事、心肝如摧、文王已没、嗟乎悲矣、清思之、世運之尽欤、健御前依懇切、密々求牛車送之、被参池殿、謁或女房帰来、被語云、至于今暁叡鳳太分明、夜前実全僧都験者、依可造山上住房、為方違可退出由申、若州抑留之、仍申不可罷出由、而殊被仰云、山上方忌尤不便、早賜暇可令方違也、依再三仰、僧都退出、其後進泰山府君都状、召脂燭、分明御覧、又依人々申、聊召寄御膳、御寝之際、御気頗有奇事、奉驚見之間、事已危急、仍以泰通朝臣令申院御方、即渡御、打鳴金、雖有御念佛、不及御合眼云々、日来法皇渡御、深喜悦思食、乍臥有御対面、御言語如平常、諮詢互懇切云々、付視聽催悲慟之思、須馳参之処、末座者更不可然由、深以難渋、是又前世之宿報耳、只以此説、僅不審、今夜渡御邦綱清閑寺小堂、抑是六条院御墓所堂云々、如何々々、聞及事不幾、夜私出交雑人見物、落涙千万行、(『明月記』同日条)

太上天皇崩于六波羅頼盛亭、御年廿一、号高倉院、奉葬清閑寺、(『百錬抄』同日条)

つゐにたまのなへ、たねをついで、まうけの君、春のみやまに、ちよのかげをならべさせ給て、大うち山をたちいでて、みやばしら雲のおりゐさせたまひしのちい、はこやの山、よろづ世よバはんこゑをまち、汾陽縣の水、とかへりすまんながれを汲て、しらぎくのおりふしごとに、かはたけのその夜を、はるかに契りしかひもなくて、おぼろ月よのかきくもり、御心のうち、あさぎりのはれぬやまひに、日數つもりつつ、よもぎがしまのくすりい、たゞ名をのみ聞て、葛稚が方も、そのしるしもなくて、治承五の年の春のはじめ、十四日のあかつき、「ねざめ」の御枕をきたになして、たまの御ありかも、にしにうつさせ給しかば、雲とやなり、雨とやならせ給ぬらん、夢かゆめにもあらぬかと、おもひあいせんかたもなく、まどひにまどひをそへて、我になして、我にもあらず、あけゆく鳥のこゑもおしまず、をのがきぬ[注 35]いづちすてて、かくれさせたまひぬるぞと、たゞありあけの空をながむれバ、みどりのかすみばかり、うたてたちのぼり、いさごをたゞきて、つちのそこへいらんとすれば、きなるいづみそこふかくして、かへらぬ水の、うき世のあいとはいひながら、なみだの川のめのまへに、かかるうくせきよをわたるべしとい、きしうつなみの、思ひよらざりし物をと、なげくにかひなし、ひむがしにおいしますとしらバ、さしいでん日かげに、あさがほのつねなきためしを思ひしり、にしにおいしますとしらバ、かたむく月のひかりにつけても、しのすゝきしげきなげきをも、かくとほのめかし、みなみにおいしますとしらば、かすみをわけてもながめやり、北におはしますとしらバ、こしぢにかへるかりがねに、たまづさをつけてもなぐさむべきに、おほぞらにのぼり、よろづのうみをも、もとめがたければ、あやにくに心あくがれて、そのゆふべ、六はらより清閑寺にうつしたてまつる、殿上にて、まづのちの御名のさだめあるにつけても、たかくらいかなる大ぢにて、うき名の御かたみにのこり、ひむがし山いかなるみねにて、かぎりの御すみかとさだめらるらんと、おもふもかなしく、さよもやゝふけゆきて、御前僧などまいりあつまりて、あるべき御よそ「ほ」ひどもはてにしかば、つねの御車さしよせて、あへなくたてまつりしほど、ちかきまもりのとねりども、たちそひたてまつるそうもなく、みさきのこゑをば、わかれをしのびねにかへ、あさゆふなれつかうまつりし人い、としごろの宮づかへを、こよひにかぎりつつ、巴峽にもをうるほすさるのさけびにかいらず、つるのはやしにたきぎつくるけぶりにまどひて、つねのみゆきにかいらぬありさまも、さすがにしかまのかち路のみちより、ゆきそむるあともおぼえず、みねのゆき、みぎハのこほりをふみわけて、しらざりしやまのふもとに、うつせみのみからを、おさめたてまつる、そうの念佛となへあひたるも、りやうせんかいの、のりをときしには、うがくむがくの、らかんのあつまりしかとおぼえ、かねのおとの、こゝかしこにきこゆるも、ぎをんしやうじやのむじやう院の「夕ぐれの」」心地す、光をかゞやきしたまの御車も、夜はのけぶりとはかなくたちのぼる、色をよそひしにしきの御ましも、はるのこけにながくうづもれて、かたときはなれたてまつらざりしともがらも、おんあいのおもひはかぎりなけれど、生死のさかひにかはりにけれバ、妻子ちんぽふ及王位、まことに御身にしたがふものもなく、たゞをくりをくやまの中に、御わざの事はてにしかば、ゆくりなき三昧僧に、あづけをきたてまつりて、法華道場をたておさめ、をの[注 36]ゆきわかれにき、(『高倉院昇霞記』)
1月24日 薨後 遺詔奏 此日、高倉院被奏遺詔、大蔵卿雅隆朝臣為使云々、子細可尋記、(『玉葉』同日条)

主な後宮・女官一覧

※日付=旧暦

氏名 女官 位階 呼び名 宮仕先 備考
藤原経子 乳母、典侍 従三位 大納言典侍、大納言三位 内裏 藤原家成の娘、平重盛の妻、平清経の母。仁安元年10月10日、叙爵。嘉応元年10月25日、典侍に任ず。同年4月6日、従五位上に叙す。同年10月25日、八十島使を務む。後に従三位に叙されるも、年月日は詳らかならず。
藤原邦子 藤原邦綱の娘、六条天皇及び高倉天皇の乳母を歴任。永万1年7月22日、典侍に任ず。同月27日、右褰帳命婦となる。仁安1年11月25日、従四位下に叙され、時に「御乳母」と称される。同2年12月29日、従三位に叙す。治承4年11月24日、病中の高倉上皇に供奉し、福原還御の御車に同車す。
藤原綱子 別当典侍、別当三位 藤原邦綱の娘、高倉天皇と平徳子の乳母であった。永万1年7月22日、典侍に任じられ、従五位下に叙される。仁安3年4月6日、従五位上に叙す。同年12月4日、正五位上に叙す。嘉応1年10月、典侍を辞す。その後従三位に叙される。
平清子 中納言典侍、中納言三位 平時信の娘、平滋子の姉、平時子の妹、平清盛猶子平宗盛の妻、平清宗の母である。仁安3年3月11日、典侍に任じられる。同年4月6日、従五位上に叙される。同年4月23日、賀茂勅使を務める。同年12月4日、正五位下に叙す。その後累進して従三位に至る。治承2年閏6月16日、出家。同年7月16日、薨去。享年33。
平時子 従二位 二位尼 平時信の娘、平時忠の同母姉、平清盛の妻、平宗盛らの母。二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇の乳母を歴任。大治1年生まれ。二条天皇践祚後に典侍に就任。永暦1年12月24日に従三位に叙され、「師三位」と称される。仁安1年10月21日に従二位に叙す。同3年2月11日に出家。寿永4年3月24日壇ノ浦で入水。
平政子 乳母 若狭局 おそらく平正盛の娘であり、丹後局・高階栄子の生母とされる。高倉・安徳両朝において、権勢ある女房として後宮で活躍した。
藤原公子 乳人 従四位下 帥局、輔局 藤原公重の娘。安元2年、皇女(後の功子内親王)を出産。仁安3年4月に従四位下に叙される。その後密通の噂があり、治承3年1月10日に流産のため死去したと伝わる。
藤原忠子 典侍 従五位下 権中納言 藤原光忠の娘、おそらく平維盛の室。仁安3年3月11日、典侍に任ぜられる。
藤原教子 督殿 藤原実綱の娘、源雅行の妻。仁安3年3月11日、典侍に任ぜられる。嘉禄1年5月19日、逝去。
平総子 従五位上 出自不詳。安元2年1月11日、従五位上に叙される。
信子女王 従五位下 内裏 顕広王の娘。治承2年10月27日、典侍に任ぜられる。
平瑞子 中納言典侍 源師行の娘。源有房の妻が平清盛の姉妹であった縁故で、平宗盛の猶子となる。安元2年4月、典侍在任。治承3年3月26日、典侍在任。その後、後鳥羽朝に女房として仕える。
藤原業子(実子) 従五位下 内裏
源某女 中納言典侍
平某女 坊門殿
甲斐 内裏
賀茂某女 尾張 殷富門院・亮子内親王
藤原某女 新中納言
某女 春日
大輔
藤原季子 蔵人 従五位下 中宮・藤原育子
平信子 皇太后・平滋子
源雅子 太皇太后・藤原多子
藤原某女 宣旨 内裏
藤原豊子 典侍 按察典侍
藤原殖子 従三位 兵衛督
藤原説子 掌侍 伊豫内侍
高階兼子 弁内侍
高階仲子(業子) 掌侍 従四位下 美作内侍
高階行子 従五位下 播磨内侍
藤原範子 甲斐内侍
藤原能子 少納言内侍
平範子 少将内侍 内裏
藤原朝子 従五位下
平種子
平禅子 少輔内侍
源某女 備中内侍 内裏
平永子 蔵人 従五位下
平忠子 御匣殿蔵人 内裏
中原重子 内教坊
藤原親子 命婦
藤井今子 水取 外従五位下 内裏
清原吉子 掌縫 従五位下
清原某女 大弐帥
某姓統子 掌侍 内裏
某姓宏子
平久子 従五位下
源保子
安倍康子
橘皓子
藤原範子 御匣殿蔵人
藤原信子 命婦
藤原弘子 蔵人
安倍永子 采女
藤原令子 内教坊
河内春子 水取 外従五位下
平静子 命婦 従五位上
藤原維子 蔵人 従五位下
平近子
中原全子 内教坊
藤原包子 女史 内裏
藤原保子 采女
中原能子 闈司 内裏
藤原惟子 命婦
藤原尚子
石原友子 女孺 外従五位下
藤原成子 従五位下 小督 内裏
藤原某女 命婦 少納言
紀某女 新少将
大中臣某女 越前 内裏
藤原某女 右衛門佐
中将
紀某女 小侍従
平某女 尾張
藤原某女 掌侍
某女 按察局
藤原某女 坊門局、京極局 後白河法皇
某女 冷泉局
藤原某女 近衛局
大宮局
従三位 高倉局 後白河院の「愛物」とは、下級貴族あるいは平民の出身、すなわち「其品人不知、最下劣者欤」というものだ。
藤原龍寿女 大納言 賀茂斎院・式子内親王 藤原俊成の娘、藤原定家の姉妹。
藤原某女 女別当
源某女 中納言 源師仲の娘、平重衡の愛人。
某女 中将 平重衡と縁あり。

逸話

高倉帝寵愛の紅葉で暖を取る仕丁たち。井上安治筆、「教導立志基」より

平家物語』巻六「紅葉」に高倉帝の寛大さを示す逸話が登場する[4]。高倉帝が少年の頃、普段から愛していた庭の紅葉をある日庭掃除の仕丁らが焚火にして酒を飲んでいた[5]。側近らが罰せようとすると、帝は唐詩の「林間暖酒 焼紅葉(林間に酒を暖めて紅葉を焼く)」になぞらえたもので風流であると仕丁らを放免した[5]雛人形の笑い上戸・泣き上戸・怒り上戸の三仕丁はこの逸話によるもの[4]

系譜

高倉天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第72代 白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 第73代 堀河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 藤原賢子
 
 
 
 
 
 
 
4. 第74代 鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原実季(=20)
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原苡子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 藤原睦子(=21)
 
 
 
 
 
 
 
2. 第77代 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 藤原実季(=18)
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原公実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 藤原睦子(=19)
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原璋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原隆方
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原光子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 第80代 高倉天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 平経方
 
 
 
 
 
 
 
12. 平知信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 藤原雅信女
 
 
 
 
 
 
 
6. 平時信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 平滋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原顕隆
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原顕頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 藤原悦子
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原祐子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. 藤原俊忠
 
 
 
 
 
 
 
15. 藤原忠子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
77 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
78 二条天皇
 
以仁王
 
80 高倉天皇
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
式子内親王
 
覲子内親王
宣陽門院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
79 六条天皇
 
某王
北陸宮
 
81 安徳天皇
 
守貞親王
(後高倉院)
 
82 後鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
86 後堀河天皇
 
83 土御門天皇
 
84 順徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
87 四条天皇
 
88 後嵯峨天皇
 
85 仲恭天皇
 
忠成王
(岩倉宮)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女

在位中の元号

陵・霊廟

後清閑寺陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。清閑寺旧境内の山腹に所在する。

治承5年(1181年1月14日の天皇崩御の夜、遺詔によって清閑寺法華堂に奉葬された。のちに法華堂は消滅したが、祭祀は継続されており、幕末には聖護院宮の管理下にあった。明治29年(1896年)、六条天皇清閑寺陵と区別して現陵号を設定。陵域内には、法華堂の基壇と見られる墳丘と、小督局の墓と伝える宝篋印塔がある。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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脚注

注釈

  1. ^ これに対して、母・建春門院が崩御した直後のことで、高倉天皇の同母弟が生まれる可能性が無くなったのを受けて治天の君である後白河院が皇位継承の安定化のために図ったもので、譲位させる意図はなかったとする説もある。これは高倉天皇に安徳天皇ら皇子が次々に誕生すると異母弟たちの出家が行われていることや後に平家一門が安徳天皇を連れて西国に落ち延びた際も後白河院が高倉天皇の血筋以外への皇位継承を否認しているからも証明できるとしている。ただし、この説においても当時16歳であった高倉天皇や平家一門がこの判断をどう受け取るかは別問題であるとしている[2]
  2. ^ 高倉天皇も父である後白河院を警戒して母・建春門院から継承した所領を自己のものとし、崩御の際には中宮であった徳子に継承させようとしている[3]
  3. ^ 参考のため、引用した史料は適宜修正・調整することがあります。
  4. ^ 行啓とは、太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫の外出を指す尊敬語です。平安時代中期以降、公式の儀礼としての外出を表す用語として、天皇の外出を指す「行幸」、上皇・法皇・女院の外出を指す「御幸」とともに、それぞれの身分に応じて明確に区別され使い分けられてきました。
  5. ^ 還幸とも。天皇・法皇・三后が、出かけた先から帰ること。転じて、将軍・公卿が出先から帰ることにいう場合もある。
  6. ^ 天皇が引馬を御覧になる儀式。年初の白馬や貢馬、官祭奉仕の走馬などを禁中に引かせて観覧する。
  7. ^ 平安時代以後、幼帝や東宮、親王などの就学始の儀式。先例によって9~11歳ごろの上吉の日に行なわれ、侍読、尚復が選ばれて教授し、教科書には主に『孝経』や『文選』が用いられた。当日は、たとえば『御註孝経序』と書名だけ読んで終わる簡略な儀式であるが、この後に侍読の計画に従って継続して学習生活にはいった。
  8. ^ 古くは陰暦12月15日から、後には19日から三日間、宮中で行なわれた法事。僧に仏名経を読ませ、六根の罪障消滅を祈るもの。
  9. ^ 古代、朝廷の大礼または変乱などが済んだあと、固めていた逢坂(はじめは愛発)・鈴鹿・不破の三つの関を開いて警護を解くこと。
  10. ^ 平安時代、宮中において、臨時に警備の配置をしたものを解散すること。
  11. ^ 藤原永範(1102年-1180年) は、平安時代後期の公卿であり漢詩人である。文章博士や東宮学士などを歴任し、最終的には正三位・宮内卿に至った。後白河・二条・高倉天皇の三代天皇にわたり侍読を務めた学識者として知られる。その漢詩作品は『中右記部類紙背漢詩集』に、和歌は『千載和歌集』などの勅撰和歌集に、また文章は『願文集』や『詩序集』などの文集にそれぞれ収められている。治承4年に75歳(または79歳)で没した。
  12. ^ 陰暦3月3日と9月3日に、天皇が北斗星を祀って燈火を献じた朝廷の儀式。796年ごろ始まった公事。元来は北山の霊厳寺など、高い峰に火をともして北辰権現を祀る信仰の行事だった。平安時代中期から末期になると御燈を奉らず、「御燈を奉らざる由の祓」のみを行う、いわゆる「由の祓」にすることが多くなった。
  13. ^ 古代、宮中で行われた年中行事の一。天皇が紫宸殿に出御、臣下に酒を賜り、政務を聞く儀式。もとは毎月1日・11日・16日・21日に行われたが、平安中期以後は4月と10月の1日だけとなった。
  14. ^ 旬、節会など、本来天皇が出席して行なわれる儀式の、天皇出御のない場合の形式。
  15. ^ 石清水八幡宮で毎年3月の中の午の日または下の午の日に行われた祭礼。その起源は天慶5年(942年)、朱雀天皇の時代にさかのぼります。承平・天慶の乱平定の報賽 として臨時に執り行われたのが始まりです。その後、天禄2年(971年) からは名称こそ「臨時祭」のまま、恒例の祭礼として定着しました。また、当時盛大に行われていた賀茂臨時祭(北祭) と対比され、南祭とも呼ばれることがありました。この呼称は、京都の南北に位置する二大臨時祭として並び称されたことを示しています。
  16. ^ もと広瀬大忌祭と称され、奈良・平安時代には神祇官所祭の四時祭として毎年4月と7月の4日に竜田風神祭と同時に執行されたが、現在は4月4日だけに広瀬神社の例大祭として行われる。
  17. ^ 京都市北区に鎮座する平野神社の例祭。平安時代以来、毎年4月と11月の上申日に行われた、『延喜式』においては小祀と定められている。祭りの起源は、延暦~弘仁年間(782年 -824年)とも仁寿~貞観年間(851年 -877年)ともいわれるが未詳。皇室への守護を祈願する祭りとして、『弘仁式』には皇太子みずから参向して奉幣することが定められている。『延喜式』では、これに桓武天皇の外祖父母にあたる大江氏、和氏の氏人らが見参する規定が加わる。これは、桓武天皇外戚神としての位置づけが加わったためともいわれる。当日、宮中では天皇御禊を修し、遥拝の儀があった。現在は4月2日を例祭日とする。なお、かつては例祭と同日に平野臨時祭も行われた。
  18. ^ 京都市右京区の梅宮神社で行われる祭礼。その起源は仁明天皇の時代にさかのぼり、託宣によって天皇の母である檀林皇后(橘嘉智子)が現在の地に神社を移し、自ら祭祀を行ったことに始まると伝えられます。古くは4月・11月の上酉の日に執り行われていました。当初は橘氏の五位者が勅使として奉幣の任にあたりましたが、橘氏が衰えると藤原氏、さらには源氏の長者がその役目を代行するようになりました。
  19. ^ 旬政の一つ。新帝が即位して初めて万機の政に臨むときは万機旬。
  20. ^ 陰暦4月8日の釈迦の誕生日に、花御堂に安置した釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。
  21. ^ 京都の伏見稲荷大社の祭礼。古くは、4月上卯の日を式日とする。旧暦3月中の午日に、神璽をうつした五基の神輿が、京都油小路西九条の御旅所に神幸する神幸祭(「稲荷のお出で」)と、御旅所に約20日間滞留したのち、翌4月上卯日(三卯あれば中卯日)に本社に還幸する還幸祭(「稲荷のお旅」)とがある。御旅所より還幸のさい、神輿が東寺に入り寺家の神供を受けた。
  22. ^ 葵祭とも。上賀茂神社・下鴨神社の祭。京都三大祭の一つ。古くは4月中酉の日に行われたが,現在は5月15日。京都御所での出立の儀ののち,斎院(斎王とも)・勅使を中心として検非違使・山城使・御幣櫃・舞人らが下鴨社にむかい,その後上賀茂社へいって御所へ戻る。この路頭の儀が祭のなかでも華やかで,最も重要な社頭の儀では返祝詞をのべる。葵の葉を社前や牛車にかけ,供奉者が衣冠につけたことから葵祭ともいわれ,古代にはたんに祭といえば葵祭をさした。石清水八幡宮の南祭に対して北祭ともいう。
  23. ^ 祈年穀奉幣は、平安時代から室町時代にかけて行われた国家的な祭祀儀礼です。その年の五穀豊穣を祈願する目的で、毎年2月・7月の吉日に、朝廷から選ばれた近畿地方の有力な二十二の神社に対して奉幣が行われました。対象となった二十二社は、永保元年(1081年) に制度として確定し、以下の通り:

    伊勢石清水賀茂松尾平野稲荷春日大原野大神石上大和広瀬龍田住吉梅宮吉田広田祇園北野丹生貴船日吉

  24. ^ 大嘗会のとき、神饌を奉る悠紀・主基の国郡を亀卜により決めること。定められた国郡の斎田(悠紀田・主基田)に抜穂使が赴いて新稲を採り、持ち帰って斎場に供える。平安時代、醍醐天皇の大嘗会以来、悠紀国は近江、主基国は丹波あるいは備中とする例となったが、郡は卜定した。
  25. ^ 告陵使とも。皇室の大礼や大事件などを山陵(天皇・皇后などの陵墓)に告げるため、とくに皇室から遣わされる使者。天皇が皇位につく即位の礼や、正式に皇太子をきめる立太子の礼をはじめ、国家的な大事変などの場合に行なわれるもの。
  26. ^ 宇佐八幡宮に奉幣のため派遣される勅使。天皇即位の奉告、即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)、兵乱など国家の大事の際の祈願の場合のほか,醍醐天皇のころよりは恒例の使も行われたが,それは『朝野群載』所収の宣命などによれば3年に1度の定めであったらしい。天皇即位の奉告の使は、宇佐和気使と称して必ず和気氏の五位の者が遣わされる例であり、これは先祖の和気清麻呂が道鏡の事件のとき、使として宇佐八幡の神託をうけた功績にちなんだもので、天長10年(833年)に仁明天皇の即位奉告のため従四位下和気真綱(清麻呂の子)が遣わされたのが初例のようである。勅使発遣の儀式については『江家次第』等に詳しい。
  27. ^ 大嘗会の折、行事(悠紀・主基)が執務するために設けられた臨時の場所。
  28. ^ 天皇が朝廷の政務をみないこと。「輟朝」ともいう。臨朝に対する語。日食や二等親以上の喪などの場合に行われ、その日数は1日または3日ないし5日。その間、清涼殿の御簾を垂れて諸事を慎み、音奏、警蹕などを停止する例である。なお諸官司が政務を廃するのを廃務といい、1日限りを原則とし、廃朝の際はかならずしも廃務しないが、国忌や日食の場合のように、両者が一致するときもある。
  29. ^ 道恵法親王(1132年-1168年)は、平安時代後期の皇族僧侶。長承1年(1132年)鳥羽天皇の第六皇子として誕生しました。母は、石清水八幡宮別当であった紀光清の娘で、美濃局と呼ばれた女性。天台宗の僧侶となり、保延4年(1141年)には有名な絵師でもあった鳥羽僧正覚猷の下で出家しました。その後も修行を重ね、久安2年(1146年)には一身阿闍梨、久安6年(1150年)には行慶から灌頂を受けました。永暦1年(1160年)には親王宣下を受け、道惠法親王となりました。その後は四天王寺別当や園城寺長吏を務めました。仁安3年(1168年)4月25日、37歳という若さでその生涯を閉じました。
  30. ^ 祈雨奉幣使は複数の神社に派遣される奉幣使の総称であるのに対し、祈雨使は特に五竜祭における神泉苑派遣の勅使を指し、厳密には異なる概念です。
  31. ^ 宮中で、毎年6月・12月の晦日、天皇の体を測り、竹の杖の節の間を折って、祓えを行なう行事。同様に中宮や東宮の祓えを行なう中宮節折や東宮節折もあった。
  32. ^ 陰暦7月7日の行事。乞巧は技工、芸能の上達を願う祭。もと中国の行事であるが、日本でも奈良時代以来、宮中の節会としてとり入れられ、在来の棚機津女の伝説や祓えの行事とも結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった。
  33. ^ 管弦の遊びに用いる楽器。
  34. ^ 長日御修法とも。日限を定めずに長期にわたっておこなう御祈祷を指す。
  35. ^ くの字点(濁点)。きぬぎぬ。
  36. ^ くの字点。をのをの。

出典

  1. ^ 海野泰男『今鏡全釈』 上巻、367-368頁。 
  2. ^ 松薗斉『中世の王家と宮家』臨川書店〈王朝時代の実像15〉、2023年、28-30頁。ISBN 978-4-653-04715-5 
  3. ^ 佐伯智広「高倉皇統の所領伝領」『日本史研究』549号、2008年。 /所収:佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』、東京大学出版会、2015年。 ISBN 978-4-13-026238-5 
  4. ^ a b 酒器の美に酔う静嘉堂文庫美術館、2018
  5. ^ a b 高倉天皇・仕丁紅葉焚銀座長州屋

関連項目

  • 柏島神社 - 1180年(治承4年)、厳島神社に参拝した際に大山祗神社から分神して作られた神社



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