治承三年の政変
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治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)は、治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。
- ^ 高倉の第二皇女・範子内親王は徳子の猶子となっている(『山槐記』治承2年6月17日条)。徳子は他にも後白河の第十一皇子・真禎を猶子とし(『山槐記』治承2年6月19日条)、後白河の第九皇子・道法法親王や高倉の第三皇女・潔子内親王についても身辺の世話をしていることが確認できる(『山槐記』治承3年4月16日条、4月23日条)。これらは徳子や一門の養育という形で、平氏が高倉の皇子女や後嗣と成り得る存在を監視下に置いたものと考えられる。
- ^ 『山槐記』によれば、清盛は福原帰還の途中、鴨川・桂川の合流点にある木津殿前の河に碇を下ろして篝火を焚き、子息や武士達が左右に控える中、連行してきた人々を船前に引き据えて首を斬り、河中に投げ入れて見せしめの処刑を行っており、この時に殺害された人物が為行・為保らと見られる。
- ^ 経宗の嫡男・頼実は従三位に叙せられて公卿となり、兼実の長男・良通は従二位権中納言兼右近衛大将となり破格の昇進を遂げた。
- ^ 元木泰雄は法皇が越前国を没収した背景として越前国が平氏一門の中でも頼盛や重盛など法皇に近い人々の知行国であったことを指摘し、法皇は同国を(重盛を含む)院近臣の知行国とみなしていたとする(元木「平重盛論」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)。
- ^ 樋口健太郎は太政大臣の藤原師長も摂関の地位を望んで平盛子との再婚を画策して失敗した経緯や太政大臣就任そのものが摂関就任断念と引換であったことを指摘し、師長もまた近衛家の摂関家継承を脅かす存在であったことを指摘している(樋口「藤原師長論」(『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年 ISBN 978-4-7517-4280-8)所収、原論文は2005年)。
- ^ 岩田慎平「武家政権について」元木泰雄 編『日本中世の政治と制度』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02966-7 P321-323.
- ^ ただし、実際に処分されたのは下級官人まで含めると50名に及んでいる(河内、2007年、P163)。
- 1 治承三年の政変とは
- 2 治承三年の政変の概要
- 3 解官者一覧(11月17日)
- 4 参考文献
治承三年の政変
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詳細は「治承三年の政変」を参照 治承3年(1179年)11月、清盛の反乱により後白河法皇の院政は停止される。また、この反乱によって摂政基房は解任され、代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任する。また、院近臣の多くが解官された。翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位、高倉院政が開始される。3月、高倉上皇は清盛の強い要請により厳島神社への参詣を計画するが、先例を無視するものとして畿内の寺社勢力は猛然と反発する。 また、この政変で平氏の知行国は17か国から32か国に急増するが、このことは全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった。
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治承三年の政変
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治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された。治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。
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