以仁王の挙兵
以仁王の挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
詳細は「以仁王の挙兵」を参照 治承4年(1180年)、安徳天皇の即位により皇位継承が絶望となった以仁王が、源頼政の協力を受け、平氏追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発した。その令旨は源行家により、全国各地の源氏や八条院の支配下にある武士達に伝えられた。しかし挙兵直前に紀伊熊野の平氏方(権別当湛増を中心とした本宮勢力)と反平氏方(行快を中心とした新宮・那智勢力)との熊野新宮合戦があり、その後、権別当湛増からの平氏への注進により平氏追討の企てが発覚した。以仁王らは、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍の攻撃を受け、同年5月、宇治の平等院で戦死するが、この挙兵が6年間に及ぶ内乱の契機となった。
※この「以仁王の挙兵」の解説は、「治承・寿永の乱」の解説の一部です。
「以仁王の挙兵」を含む「治承・寿永の乱」の記事については、「治承・寿永の乱」の概要を参照ください。
以仁王の挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:40 UTC 版)
「以仁王の挙兵」も参照 また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。5月15日、平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使の土岐光長と源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた。16日に入って以仁王が園城寺に逃れていることが判明し、21日に平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる。 頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず、また園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都の寺院勢力を頼ることに決めた。 治承4年(1180年)5月26日、頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に以仁王は興福寺へ向かったが、同日中に南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。『平家物語』は、飛騨守景家に軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする。
※この「以仁王の挙兵」の解説は、「以仁王」の解説の一部です。
「以仁王の挙兵」を含む「以仁王」の記事については、「以仁王」の概要を参照ください。
以仁王の挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:48 UTC 版)
詳細は「以仁王の挙兵」を参照 この頃、平氏政権と後白河院政との間で軋みが生じていた。治承元年(1177年)に鹿ケ谷の陰謀事件が起きて法皇の関与が疑われた。そして、治承3年(1179年)11月、法皇と対立した清盛は福原から兵を率いて京へ乱入してクーデターを断行、院政を停止して法皇を幽閉する挙に出た(治承三年の政変)。翌治承4年(1180年)2月、清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉帝と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させた。 これに不満を持ったのが後白河法皇の第三皇子の以仁王(高倉宮・三条宮)である。以仁王は法皇の妹・八条院暲子内親王の猶子となって皇位への望みをつないでいたが、安徳天皇の即位でその望みが全く絶たれてしまった。頼政はこの以仁王と結んで平氏政権打倒の挙兵を計画した。 挙兵の動機について、『平家物語』では仲綱の愛馬を巡って清盛の三男の平宗盛がひどい侮辱を与えたことが原因であるとし、頼政は武士の意地から挙兵を決意して夜半に以仁王の邸を訪ね、挙兵をもちかけたことになっている。一方で、代々の大内守護として鳥羽院直系の近衛天皇・二条天皇に仕えた頼政が系統の違う高倉天皇・安徳天皇の即位に反発したという説もある。また、以仁王との共謀自体が頼政挙兵の動機を説明づけようとした『平家物語』の創作で、5月21日の園城寺攻撃命令に出家の身である頼政が反抗したために、平氏側に捕らえられることを恐れて以仁王側に奔ったとする説もある。 同年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家(為義の十男)を伝達の使者とした。だが5月にはこの挙兵計画は露見、平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決めた。だが、その追っ手には頼政の養子の兼綱が含まれていたことから、まだ平氏は頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。5月21日に平氏は園城寺攻撃を決めるが、その編成にも頼政が含まれていた。その夜、頼政は自邸を焼くと仲綱・兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流。平氏打倒の意思を明らかにした。 挙兵計画では、園城寺の他に延暦寺や興福寺の決起を見込んでいたが、平氏の懐柔工作で延暦寺が中立化してしまった。25日夜には園城寺も危険になり、頼政は以仁王とともに南都興福寺へ向かうが、夜間の行軍で以仁王が疲労して落馬し、途中の宇治平等院で休息を取った。そこへ平氏の大軍が攻め寄せた。 26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討ち死にあるいは自害し、頼政も辞世の句を残して郎党の渡辺唱(となう)の介錯で腹を切って自刃した。享年77。 辞世の句埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける — 『平家物語』 巻第四 「宮御最後」 以仁王は脱出したが、藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討ち取られた。以仁王と頼政の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝・義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。皇太子時代に京都に滞在中宇治を訪れた大正天皇は『遊宇治』という漢詩にて「宇治の地で最も素晴らしいのは平等院鳳凰堂の威容でありここで自刃した源頼政の辞世の歌は心を動かす」と詠んでいる。 頼政の末子の広綱や、仲綱の子の有綱・成綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した頼朝の幕下に参加している。
※この「以仁王の挙兵」の解説は、「源頼政」の解説の一部です。
「以仁王の挙兵」を含む「源頼政」の記事については、「源頼政」の概要を参照ください。
以仁王の挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 10:18 UTC 版)
治承4年(1180年)4月、頼政・仲綱父子は後白河法皇の第三皇子以仁王と平家打倒を謀った。その動機について、『平家物語』では、仲綱が所有していた「木の下」(または「九重」)という名馬を清盛の三男の宗盛が権勢を笠に強引に奪い、しかもその馬に「仲綱」という名をつけて侮辱したのがきっかけだったと言われている。暗愚の将・宗盛という人物像を印象づける逸話であるが、事実かどうかは不明である。 挙兵計画は以仁王の名で平家追討の令旨を大寺社や諸国に雌伏する源氏に下し、その蜂起の呼びかけの名義人が「前伊豆守源仲綱」であった。5月になって挙兵計画は準備不足の段階で漏洩してしまう。同年5月21日夜に父頼政、弟の兼綱らとともに自邸を焼いて京を退去し、園城寺に逃れていた以仁王と合流し挙兵の意思を明らかにした。 だが、平家の調略で延暦寺は動かず、園城寺も危険になったため、南都興福寺へ向かう。26日に平知盛率いる追討軍に追いつかれ宇治川をはさんで平家方の大軍と合戦になった。頼政と仲綱が大将となって防戦するが、平家方に強攻渡河されて防御陣は崩れる。仲綱らは以仁王を逃すべく平等院に籠って必死で戦い、仲綱はさんざんに戦い満身創痍になって平等院釣殿で自害した。享年は55とも。 老齢の頼政は腹を切って自害し、頼政養子の兼綱、仲家(源義仲の兄)、仲綱嫡男・宗綱らも最期をともにしている。 仲綱の次男の有綱とその弟で四男の成綱は知行国の伊豆にいたため生き残り、伊豆での源頼朝の挙兵に参加、有綱はのち源義経の女婿となる。 三男の頼成も知行国にいたため難を逃れたが、北面の武士であった兄の有綱が後白河法皇の命により源義経の家臣になると、兄の有綱に従い義経に仕えた。のちに頼朝が下した義経追討により有綱が討たれると、弟の成綱、広綱と甥の宗仲(宗綱の次男)、叔父の国政(頼政の二男)、頼兼(頼政の四男)らと那須塩原に逃れる。
※この「以仁王の挙兵」の解説は、「源仲綱」の解説の一部です。
「以仁王の挙兵」を含む「源仲綱」の記事については、「源仲綱」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 以仁王の挙兵のページへのリンク