以仁王の挙兵とは? わかりやすく解説

以仁王の挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/25 16:57 UTC 版)

以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王源頼政が、平家打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。




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以仁王の挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)

治承・寿永の乱」の記事における「以仁王の挙兵」の解説

詳細は「以仁王の挙兵」を参照 治承4年1180年)、安徳天皇即位により皇位継承絶望となった以仁王が、源頼政協力を受け、平氏追討安徳天皇廃位新政権樹立計画した令旨発した。その令旨源行家により、全国各地源氏八条院支配下にある武士達に伝えられた。しかし挙兵直前紀伊熊野平氏方(別当湛増中心とした本宮勢力)と反平氏方(行快中心とした新宮那智勢力)との熊野新宮合戦があり、その後別当湛増からの平氏への注進により平氏追討企て発覚した以仁王らは、平知盛平重衡率い平氏大軍攻撃を受け、同年5月宇治平等院戦死するが、この挙兵6年間に及ぶ内乱契機となった

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以仁王の挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:40 UTC 版)

以仁王」の記事における「以仁王の挙兵」の解説

「以仁王の挙兵」も参照 また自らも「最勝親王」と称して挙兵試みたが、準備整わないうちに計画平氏方に漏れた5月15日平氏圧力による勅命院宣以仁王皇族籍を剥奪され源姓下賜され源以光」となり、土佐国への配流決まったその日の夜、検非違使土岐光長と源兼綱頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣装って脱出していた。16日入って以仁王園城寺逃れていることが判明し21日平氏園城寺への攻撃決定する。その中の大将には頼政入っており、この時点では平氏以仁王単独謀反考えていたと思われる頼政その日のうちに子息たちを率いて園城寺入り以仁王合流した。しかし園城寺対立していた延暦寺協力を得ることができず、また園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王頼政南都寺院勢力を頼ることに決めた治承4年1180年5月26日頼政宇治防戦して時間稼いでいる間に以仁王興福寺向かったが、同日中に南山城の加幡河原平氏家人藤原景高伊藤忠綱らが率い追討軍に追いつかれて討たれた。『平家物語』は、飛騨守景家に軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする。

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以仁王の挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:48 UTC 版)

源頼政」の記事における「以仁王の挙兵」の解説

詳細は「以仁王の挙兵」を参照 この頃平氏政権後白河院政との間で軋み生じていた。治承元年1177年)に鹿ケ谷の陰謀事件起きて法皇関与疑われた。そして、治承3年1179年11月法皇対立した清盛福原から兵を率いて京へ乱入してクーデター断行院政停止して法皇幽閉する挙に出た治承三年の政変)。翌治承4年1180年2月清盛高倉天皇譲位させ、高倉帝清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳安徳天皇即位させた。 これに不満を持ったのが後白河法皇第三皇子以仁王高倉宮三条宮)である。以仁王法皇の妹・八条院暲子内親王猶子となって皇位への望みつないでいたが、安徳天皇即位でその望みが全く絶たれてしまった。頼政はこの以仁王結んで平氏政権打倒挙兵計画した挙兵の動機について、『平家物語』では仲綱の愛馬巡って清盛三男平宗盛がひどい侮辱与えたことが原因であるとし、頼政武士の意地から挙兵決意して夜半以仁王の邸を訪ね挙兵もちかけたことになっている一方で代々大内守護として鳥羽院直系近衛天皇二条天皇仕えた頼政系統の違う高倉天皇安徳天皇即位反発したという説もある。また、以仁王との共謀自体頼政挙兵の動機説明づけようとした『平家物語』創作で、5月21日園城寺攻撃命令出家の身である頼政反抗したために、平氏側に捕らえられることを恐れて以仁王側に奔ったとする説もある。 同年4月頼政以仁王諸国源氏大寺社に平氏打倒呼びかける令旨作成し源行家為義の十男)を伝達使者とした。だが5月にはこの挙兵計画露見平氏検非違使命じて以仁王逮捕決めた。だが、その追っ手には頼政養子の兼綱が含まれていたことから、まだ平氏頼政関与気付いていなかったことがわかる。以仁王園城寺脱出して匿われた。5月21日平氏園城寺攻撃決めるが、その編成にも頼政含まれていた。その夜頼政自邸を焼くと仲綱・兼綱以下の一族率いて園城寺入り以仁王合流平氏打倒意思明らかにした。 挙兵計画では、園城寺の他に延暦寺興福寺決起見込んでいたが、平氏懐柔工作延暦寺中立化してしまった。25日夜に園城寺危険になり、頼政以仁王とともに南都興福寺へ向かうが、夜間の行軍以仁王疲労して落馬し途中宇治平等院休息取った。そこへ平氏大軍攻め寄せた26日合戦になり、頼政軍は宇治橋橋板落として抵抗するが、平氏軍宇治川強行渡河されてしまう。頼政以仁王逃すべく平等院籠って抵抗する多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々討ち死にあるいは自害し頼政辞世の句残して郎党渡辺唱(となう)の介錯腹を切って自刃した。享年77辞世の句埋木花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける — 『平家物語』 巻第四 「宮御最後以仁王脱出したが、藤原景高伊藤忠綱らが率い追討軍に追いつかれて討ち取られた。以仁王頼政挙兵失敗したが、以仁王の令旨効果大きく、これを奉じて源頼朝義仲はじめとする諸国源氏大寺社が蜂起し治承・寿永の乱突入し平氏滅びることになる。皇太子時代京都滞在宇治訪れた大正天皇は『遊宇治』という漢詩にて「宇治の地で最も素晴らしいのは平等院鳳凰堂威容でありここで自刃した源頼政辞世の歌心を動かす」と詠んでいる。 頼政末子の広綱や、仲綱の子の有綱・成綱は知行国伊豆国にいたため生き残り伊豆挙兵し頼朝幕下参加している。

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以仁王の挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 10:18 UTC 版)

源仲綱」の記事における「以仁王の挙兵」の解説

治承4年1180年4月頼政・仲綱父子後白河法皇第三皇子以仁王平家打倒謀った。その動機について『平家物語』では、仲綱が所有していた「木の下」(または「九重」)という名馬清盛三男宗盛権勢を笠に強引に奪い、しかもその馬に「仲綱」という名をつけて侮辱したのがきっかけだったと言われている。暗愚の将・宗盛という人物像印象づける逸話であるが、事実かどうか不明である。 挙兵計画以仁王の名で平家追討令旨大寺社や諸国雌伏する源氏下し、その蜂起呼びかけ名義人が「前伊豆守源仲綱であった5月になって挙兵計画準備不足段階漏洩してしまう。同年5月21日夜に頼政、弟の兼綱らとともに自邸焼いて京を退去し園城寺逃れていた以仁王合流し挙兵意思明らかにした。 だが、平家調略延暦寺動かず園城寺危険になったため、南都興福寺へ向かう。26日平知盛率い追討軍に追いつかれ宇治川はさんで平家方の大軍合戦になった頼政と仲綱が大将となって防戦するが、平家方に強攻渡河されて防御陣は崩れる。仲綱らは以仁王逃すべく平等院籠って必死戦い、仲綱はさんざんに戦い満身創痍になって平等院釣殿自害した享年55とも。 老齢頼政腹を切って自害し頼政養子の兼綱、仲家源義仲の兄)、仲綱嫡男・宗綱らも最期をともにしている。 仲綱の次男の有綱とその弟で四男の成綱は知行国伊豆にいたため生き残り伊豆での源頼朝の挙兵参加、有綱はのち源義経女婿となる。 三男頼成知行国にいたため難を逃れたが、北面の武士であった兄の有綱が後白河法皇の命により源義経の家臣になると、兄の有綱に従い義経仕えた。のちに頼朝下した義経追討により有綱が討たれると、弟の成綱、広綱と甥の宗仲(宗綱の次男)、叔父国政頼政二男)、頼兼頼政の四男)らと那須塩原逃れる

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