平氏追討とは? わかりやすく解説

平氏追討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:57 UTC 版)

法住寺合戦」の記事における「平氏追討」の解説

7月28日都落ちした平氏一門に代わって、義仲・行家軍が入京する。この日の議定では平氏追討を主張する意見平氏との和平交渉による天皇剣璽奪還を図るべきとする意見割れた(『吉記同日条)が、この日後白河義仲・行家に平氏追討宣旨下す同時に院庁庁官中原康定関東派遣した30日藤原経宗九条兼実三条実房中山忠親藤原長方が大事を議定するために召集される(『玉葉同日条)。議題は平氏追討の勧賞京中狼藉関東北陸荘園への使者派遣についてだった。勧賞第一頼朝第二・義仲、第三・行家という順位決まりそれぞれに任国位階与えられることになった京中狼藉は、これまで警察権掌握していた平氏7月25日にいなくなり食糧難の中で大軍入京したことにより、深刻なものとなっていた。『吉記』には、7月26日には「比叡山僧兵降りて来た。市内放火略奪発生した」とある。治安回復狼藉取り締まりは、義仲委ねられることになる。義仲入京した同盟軍武将周辺配置して、自らは中心地である九重左京)の守護担当した。『吉記7月30日条によると、京中守護武将担当地域以下の通りである。 武将担当地域備考源頼政の子源頼兼大内裏、替川に至る 摂津源氏 高田重家、泉重忠 一条より北、西朱雀より西、梅宮に至る 清和源氏満政流 源光長 一条より北、東洞院より西、梅宮に至る 美濃源氏 安田義定 一条より北、東洞院より東、会坂に至る 甲斐源氏 村上信国 五条より北、河原より東、近江境に至る 河内源氏清流 葦敷重隆 七条より北、五条より南、河原より東、近江境に至る 清和源氏満政流 源行家 七条より南、河原より東、大和境に至る 河内源氏 山本義経 四条より南、九条より北、朱雀より西、丹波境に至る 近江源氏 柏木義兼 二条より南、四条より北、朱雀より西、丹波境に至る 近江源氏 仁科盛家 鳥羽四至の内 平姓武士信濃国仁科御厨本拠 木曾義仲 九重の内、ならびに此の外の所々 荘園への使者下向出席者全員賛成した

※この「平氏追討」の解説は、「法住寺合戦」の解説の一部です。
「平氏追討」を含む「法住寺合戦」の記事については、「法住寺合戦」の概要を参照ください。

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