平氏追討
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7月28日、都落ちした平氏一門に代わって、義仲・行家軍が入京する。この日の議定では平氏追討を主張する意見と平氏との和平交渉による天皇と剣璽の奪還を図るべきとする意見に割れた(『吉記』同日条)が、この日後白河は義仲・行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。30日、藤原経宗・九条兼実・三条実房・中山忠親・藤原長方が大事を議定するために召集される(『玉葉』同日条)。議題は平氏追討の勧賞・京中の狼藉・関東北陸荘園への使者派遣についてだった。勧賞は第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家という順位が決まり、それぞれに任国と位階が与えられることになった。京中の狼藉は、これまで警察権を掌握していた平氏が7月25日にいなくなり、食糧難の中で大軍が入京したことにより、深刻なものとなっていた。『吉記』には、7月26日には「比叡山の僧兵が降りて来た。市内の放火略奪が発生した」とある。治安回復・狼藉の取り締まりは、義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。『吉記』7月30日条によると、京中守護の武将と担当地域は以下の通りである。 武将担当地域備考源頼政の子(源頼兼) 大内裏、替川に至る 摂津源氏 高田重家、泉重忠 一条より北、西朱雀より西、梅宮に至る 清和源氏満政流 源光長 一条より北、東洞院より西、梅宮に至る 美濃源氏 安田義定 一条より北、東洞院より東、会坂に至る 甲斐源氏 村上信国 五条より北、河原より東、近江境に至る 河内源氏頼清流 葦敷重隆 七条より北、五条より南、河原より東、近江境に至る 清和源氏満政流 源行家 七条より南、河原より東、大和境に至る 河内源氏 山本義経 四条より南、九条より北、朱雀より西、丹波境に至る 近江源氏 柏木義兼 二条より南、四条より北、朱雀より西、丹波境に至る 近江源氏 仁科盛家 鳥羽四至の内 平姓の武士。信濃国・仁科御厨が本拠 木曾義仲 九重の内、ならびに此の外の所々 荘園への使者下向は出席者全員が賛成した。
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