平民に憎まれるファビウス氏族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 03:17 UTC 版)
「ファビウス氏族」の記事における「平民に憎まれるファビウス氏族」の解説
ファビウス氏族の名が歴史に現れるのは紀元前5世紀頃。このときローマは共和制初期であり、戦争に次ぐ戦争で領土を拡大していたが、新たに獲得した土地の配分をめぐってプレブス (平民)とパトリキ (貴族)の間で不和が生まれていた。紀元前486年、執政官となったスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスは平民との宥和を考え、ヘルニキ人と戦って獲得した土地の半分を平民に分配し、もう半分を同盟者のラテン人に配分することを提案した。これは後の世にも問題となる農地法の、最初の提出である(これより約400年後のグラックス兄弟やガイウス・ユリウス・カエサルのときにも農地法が提出され、そのたびに大騒動を引き起こしている)。だがこれは貴族が暗黙的に利用していた国有地まで含めて分配する法案であったため、彼らの意向を受けた同僚執政官のプロクルス・ウェルギニウスが反対する。また平民も、カッシウスが土地の半分を同盟者に譲ってしまうことに不満を抱いた。カッシウスは公職を退いたあとすぐに処刑されてしまうが、そのとき彼を弾劾したのがファビウス氏族でクァエストル・パッリキディ (査問官)を務めていたカエソ・ファビウスらであり、処刑されたのはカエソの兄弟であるクィントゥス・ファビウスが執政官を務めていた紀元前485年だった。さらにクィントゥス・ファビウスは、ウォルスキ人とアエクィ人との戦いで勝利した際の戦利品を兵士(ほとんどが徴兵された平民であった)から没収し、国庫に収めてしまった。そしてその次の執政官となったカエソ・ファビウスは農地法問題を先送りする。これによりファビウス氏族は貴族からの名声を得たが、平民から憎悪されることとなる。
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