平民苗字許容令(1870年)
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「平民苗字必称義務令」の記事における「平民苗字許容令(1870年)」の解説
1870年(明治3年)9月19日に明治政府により『自今平民苗氏被差許候事』という布告(平民苗字許容令)が出された。これにより平民も自由に姓を名乗ることができるようになった。 この布告は細川潤次郎が民部大輔大木喬任に建議したことにより実現した。細川はこの建議の理由を次のように述べている。 町人百姓の苗字差許これも明治三年、民部省内に改正局が出来てから、始めたことだ。 此の発議者は実は拙者です。 どうも天賦固有の権利を同等に持ち居りながら、人為の階級に拠りて、平民ばかりには名前のみを呼ばせて、苗字をいはせぬ。 苗字を呼ぶことは相ならぬと申すのでありますから、随分圧制な訳です。 又た一方から考へると.随分窮屈な理由です。元来、人の姓名といふものは、自他の区別を相立て丶、相乱れざる様にするものであつて見れば …(略)… 姓氏を其の名前の上に加へて、層之が区別を容易ならしむるやうにせねばならぬ。 — 細川潤次郎(雑誌『日本及日本人』において) すなわち封建制の不合理と圧制の排除、 自他の区別の必要性を理由として行われたということである。 またこの頃内外の事情によって強力な中央集権国家を建設する必要に迫られていた明治政府は、脱籍浮浪人の取締り等の治安維持、徴税、徴兵、学制等のために全国民を戸において把握管理しようと戸籍制度の創設を進めている最中だった。このために全国民を「苗字と名」で把握する必要が生まれていたことも背景にあった。 すなわち平民苗字許容令は、戸籍制度を確立するための前掲条件であるとともに、四民平等の理念に基づく身分解放政策の一環であった。
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