中山忠親とは? わかりやすく解説

なかやま‐ただちか【中山忠親】

読み方:なかやまただちか

[1132〜1195]平安末期鎌倉初期廷臣内大臣故実典礼通じ日記山槐記」など貴重な資料残した。「今鏡」「水鏡」の著者ともいわれる


中山忠親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/06 05:08 UTC 版)

 
中山忠親
天子摂関御影』中山忠親 (忠親公)
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 天承元年(1131年
死没 建久6年3月12日1195年4月23日
改名 忠親→静和(法名)
別名 中山内大臣、堀河内大臣
官位 正二位内大臣
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 藤原北家花山院家庶流中山家
父母 父:藤原忠宗、母:藤原家保の娘
兄弟 藤原忠光、藤原忠雅忠親、覚成、覚深、三条公行
藤原光房の娘、平時忠の娘
親覚、兼宗、忠季、兼季、忠明、雅明、忠輔、覚敒、親慶、覚紹、三条公房室、順徳院女房、宜秋門院御匣
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中山 忠親(なかやま ただちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家師実流(花山院家)・藤原忠宗の三男。官位は正二位内大臣。中山内大臣・堀河内大臣と号した。中山家の始祖。

経歴

保延6年(1140年)、従五位下となる。蔵人近衛少将・中将蔵人頭を歴任。長寛2年(1164年)に参議仁安2年(1167年)に従三位権中納言、さらに右衛門督検非違使別当となる。兄・藤原忠雅と同様に平氏一門と親しく、平徳子中宮権大夫・建礼門院別当として仕えた。後白河法皇院庁別当にも名を連ね、有職故実に明るく「年来礼儀作法の道を営む、当時頗るその褒(ほまれ)あり」[1]と評された。治承三年の政変では、解官された甥・花山院兼雅に代わって春宮大夫となる。

寿永2年(1183年)正月に正二位権大納言となるが、同年7月に平氏一門が都落ちした後は昇進が停滞する。文治元年(1185年)12月、源頼朝から有職の公卿であることを評価されて、議奏公卿に推挙された。建久2年(1191年)に内大臣に就任。建久5年(1194年)に出家して静和と号した。翌年3月に薨御。享年65。

晩年には洛東の中山(現在の左京区黒谷町から岡崎周辺)に別宅を構えたことから中山内府(内大臣)の名があり、後の家名ともなった。

日記に『山槐記』がある。また『水鏡』の作者にも擬せられる。

官歴

※日付=旧暦

系譜

脚注

  1. ^ 玉葉





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