中山家
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中山家(なかやまけ)は、藤原北家師実流花山院家の支流にあたる公家・華族だった家。公家としての家格は羽林家。華族としての家格は侯爵家[2]。羽林家の中で侯爵に叙せられた家は中山家と四条家の2家のみである。
注釈
出典
- ^ 御祭神・由緒 | 三峯神社
- ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 323.
- ^ a b c d e f "中山家". 日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧。
- ^ 太田 1934, p. 4294.
- ^ a b c d e 太田 1934, p. 4295.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 174.
- ^ 京都市. “中山愛親表彰碑”. 京都市歴史資料館 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都. 2022年11月27日閲覧。
- ^ a b c "中山忠能". 朝日日本歴史人物事典、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.1
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 二』(国友社、1927年)p.183
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 8.
- ^ 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
- ^ a b c 石井孝太郎 1881, p. な之部.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 99.
- ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 49.
- ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 251.
中山家
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「風の市兵衛シリーズの登場人物」の記事における「中山家」の解説
中山 絵梨(なかやま えり) 御家人中山丹波の妻。高松道久と心中を偽装した遺体で発見された。 丹波を通じて阿片の味を覚えた。もっと阿片をたくさん使いたいと思うようになり、長治の岡場所で女郎を始める。そして、向島にある柳屋の寮に大量の阿片が隠されており、それが密貿易によって手に入れた品であることを、色仕掛けによって長治から聞き出した。そのネタを使って稲左衛門をゆすろうとしたため、石井と長治によって大量の阿片を吸わされて殺された。 中山 丹波(なかやま たんば) 絵梨の婿養子。間もなく30歳。絵梨が死んだ後、しばらく庄二郎のところにかくまってもらっていたが、薬が切れて我慢できなくなり、柳屋の寮に向かった。後に、押上村の林の中で、斬り傷だらけの遺体が埋められていたのが発見された。 中山 数右衛門(なかやま かずえもん) 絵梨の実父。妻の名は富代(とみよ)。絵梨が心中という不祥事を起こしたことで、世間からの誹りに耐えていた。また、当主である丹波が行方不明ということで、家名存続も危うい状態だった。しかし、絵梨の死が心中ではないことが明らかとなり、丹波も遺体で発見されたことから、養子を迎えて家名を存続させた。
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中山家
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「警視庁鑑識班2004」の記事における「中山家」の解説
中山加奈子〈57〉 演 - 草笛光子 淳彦と沙織の母。啓一の妻。火サス版では宮本毬子が演じた。 中山沙織〈25〉 演 - 中山エミリ 淳彦の妹。火サス版では神谷けいこが演じた。 中山啓一 演 - 坂口進也 淳彦と沙織の父。神奈川県警の元刑事。15年前に起きた現金輸送車襲撃事件で殉職。
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中山家
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中山の遠祖に当たる玄亨は、18世紀初頭に佐渡国から京に出て禁裏の医師となり、以後中山家は代々医術を生業とする家系になった。中山の祖父・曄は正五位下典薬大属兼摂津守の官位を授けられており、1861年(文久元年)、徳川家茂に嫁ぐ和宮親子内親王やその母・観行院(橋本経子)らの差添医師に任ぜられ江戸城へ下向した。曄は将軍家から奥医師同等の待遇を受け、和宮らの主治医として診察を務めた。中山の父である徳輝も、典薬寮が廃止される1869年(明治2年)までは正六位下豊後介の官位をもつ同寮医師であった。また、母のまさも、典薬寮医師を務めた高階経由の三女(高階経徳の妹)であり、中山は父系・母系ともにエリート医家の血統を受け継いでいた。
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