難波家とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > 公家 > 難波家の意味・解説 

難波家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 19:43 UTC 版)

難波家
落ち牡丹 おちぼたん
本姓 藤原北家花山院家支流[1]
家祖 藤原忠教
種別 公家羽林家
華族子爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
東京市大森区[2]
著名な人物 難波頼輔
難波頼経
難波宗長
難波宗勝
支流、分家 飛鳥井家(羽林家伯爵)
凡例 / Category:日本の氏族

難波家(なんばけ)は、藤原北家花山院流貴族公家華族だった家[3][4]。公家としての家格は羽林家、華族としての爵位子爵[5]。家紋は牡丹[6]

支流飛鳥井家がある[7]


歴史

平安貴族

平安時代後期の摂政太政大臣藤原師実の五男権大納言藤原忠教を祖とする[3][1]。忠教は、花山院家の家祖家忠大炊御門家の家祖経実の実弟だが、創立当初からこの2家とは家格差があった[1]。『中右記』の寛治5年(1091年)11月12日の条に左少将忠教が兄の大納言家忠の養子である旨の記述があり、忠教は兄の養子として一家を創立したようである[1]

忠教の次男教長は、正三位参議まで進んだ後、保元の乱の際に崇徳上皇軍に付いたことで乱後常陸国に流されたが、能書家の誉れ高く、書道の口伝『才葉抄』や和歌に関する『古今集註』を著した[1]

忠教の四男頼輔が忠教の跡を継いだ[1]。頼輔は「本朝蹴鞠一道長」と謳われるほど蹴鞠に秀で、蹴鞠の祖として仰がれた[3][1]

公家

頼輔の子である刑部卿頼経源義経の同盟者として解官のうえ伊豆に流された[3][8]。その子宗長は蹴鞠の難波流の祖となり、宗長の弟雅経も飛鳥井流の祖となった[3]

以降鎌倉時代を通じて蹴鞠の名手を出して難波流を伝承する家となった。特に宗緒は、幼い頃から蹴鞠の才を示した。『実躬卿記』正安4年(1302年)2月7日の条によれば、後深草法皇仙洞蹴鞠御会で、亀山法皇後宇多上皇も臨幸する中、宗緒は、13歳(14歳もしくは15歳とも)の初めて参仕でありながら、「頗堪能」であったことから、蹴鞠が終わったのち、法皇の御前に召されて褒美として御剣を賜ったことが見え、同13日の条にも後二条天皇の蹴鞠の師範を命じられたことが見える[8]

南北朝時代に宗富の薨去で一時、絶家となる[3]15世紀に入ると蹴鞠の難波流も衰え、飛鳥井流が主流となった[9]江戸時代初期飛鳥井雅庸の次男宗勝によって約239年後に難波家が再興されたが[3][4]、左少将の時の慶長14年(1609年)の猪熊事件で勅勘を蒙り、伊豆に配流[8]。3年後に勅免があり帰京、名を雅胤(後に雅宣)と改め実家の飛鳥井家を相続している[8]。難波家の方は宗勝の実子宗種が継いだ[8]

江戸時代中期当主宗建は、蹴鞠の技に長じ、『御鞠場之記』・『蹴鞠問答』を著した他、編著書や日記『宗健卿記』を記した。また議奏や院伝奏を務め、官位も家祖以来の正二位大納言まで昇って家格を高めた[8]

幕末の当主宗弘の子宗礼は日米修好通商条約の際に無勅許締結に抗議して参内した八十八廷臣の一人[10]

公家としての家格は羽林家[5]旧家[4]内々[1]。家業は蹴鞠[4]。江戸時代の所領の表高300石[1][注釈 1]

華族

明治元年1868年)7月28日に宗弘が薨去し、宗礼が家督を継いだ[11]明治2年(1869年)に公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると難波家も公家として華族に列せられた[12][13]。明治時代初期に定められた家禄は、現米で307石3斗[14][注釈 2]1876年(明治9年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万1141円18銭3厘(華族受給者中370位)[16]

明治時代前期の宗礼の住居は東京府北豊島郡阪本村にあった。当時の家扶は岩井義雄[17]

1875年(明治8年)に宗礼が隠居し、長男の宗明が家督。宗明は陸軍軍人になったが、1877年(明治10年)3月26日の西南戦争陸軍大尉として出征して戦死したため、父宗礼が再家督[11]1884年(明治17年)2月24日に宗礼が死去すると、宗礼の次男宗美が家督を相続[11]

同年7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、翌8日に大納言直任の例がない旧・堂上家[注釈 3]として宗美が子爵に叙爵された[5]

宗美も陸軍軍人となり、輜重兵大尉まで進級した[2][11]。宗美が1925年大正14年)11月11日に死去した後には、長男の宗治が爵位と家督を相続。宗治は満州電気水道会社大連支社長や京都市主事などを務めた[2]。彼の代の昭和時代前期に難波子爵家の住居は東京府東京市大森区山王にあった[2]

系譜

実線は実子、点線は養子。
藤原師実
 
 
 
忠教1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠兼 師教 忠基 親忠 有教 教長 難波頼輔2 基教 教良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教宗 家通 基家 忠仲 頼経3 教範
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
基保 忠行 宗長4 頼教 経長 輔長 飛鳥井雅経
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠泰 範保 忠長 宗基 宗教5 忠長 輔長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
範綱 光保 宗有 宗広 教継6 教俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
保世 茂保 宗賀 宗継7 宗継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠成 宗緒8 宗有 宗夏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗清9 宗秀 宗久 宗富 宗国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗仲10 宗音 宗康 宗世
 
 
 
 
 
 
 
宗相11 宗藤 宗敦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗興12 宗富 宗名
 
 
 
宗富13
 
 
 
(再興)
宗勝14[20]
 
 
 
宗種15
 
 
 
宗量16[21]
 
 
 
宗尚17[22]
 
 
 
宗建18
 
 
 
宗城19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗董21 宗功 宗正
 
 
 
宗功22
 
 
 
宗職23
 
 
 
宗弘24
 
 
 
宗礼25
 
 
 
宗美26

脚注

注釈

  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末の難波家領は、山城国愛宕郡一乗寺村のうち101石余・山城国紀伊郡石原村のうち80石・山城国久世郡観音堂村のうち120石である(合計3村・都合301石余)。
  2. ^ 明治3年(1870年)12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである[15]
  3. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家子爵家かに分けていた[18]。難波家は家祖の忠教・宗建・宗城・宗弘が権大納言に昇っているが、中納言を辞してから大納言に任じられており、直任ではない[19]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 橋本政宣 2010, p. 324.
  2. ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 312.
  3. ^ a b c d e f g 難波家」『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%AE%B6コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  4. ^ a b c d 太田亮 1934, p. 4336.
  5. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 334.
  6. ^ 野島寿三郎 1994, p. 586.
  7. ^ 飛鳥井家」『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典、百科事典マイペディア、世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E5%AE%B6コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  8. ^ a b c d e f 橋本政宣 2010, p. 325.
  9. ^ 難波流」『世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E6%B5%81コトバンクより2022年11月23日閲覧 
  10. ^ 野島寿三郎 1994, p. 589.
  11. ^ a b c d 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 286.
  12. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 13 - 14.
  14. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 9.
  15. ^ 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  16. ^ 石川健次郎 1972, p. 60.
  17. ^ 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/69 国立国会図書館デジタルコレクション 
  18. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  19. ^ 野島寿三郎 1994, p. 586 - 589/819/880.
  20. ^ 分家飛鳥井雅庸の次男。
  21. ^ 飛鳥井雅章の子、宗種の従兄弟。
  22. ^ 飛鳥井雅章の子、宗量の実弟。

参考文献

系譜参考



難波家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:45 UTC 版)

難波作之進」の記事における「難波家」の解説

山口県熊毛郡周防村現在の光市)) 父・市蔵 妻・ロク明治4年1871年7月生 - 没 山口県平民国光左衛門長女 男・正太郎黒川正太郎明治24年1891年9月生 - 没 1926年、作之進の弟・黒川本の家籍に入り1927年分家する。1916年東京帝国大学法科大学英法科を卒業し久原鉱業(現・ENEOSホールディングス勤務経て1936年弁護士を開業。後に東満セメント代表、東満州産業専務取締役琿春炭鉱取締役歴任趣味園芸宗教神道。 同妻・ヤス明治27年1893年12月生 - 没 山口県人、市川清の妹、防府高女三男義人吉田義人明治29年1896年8月生 - 昭和37年1962年2月26日吉田三郎長女である登代の婿養子となる。1920年京都帝国大学法学部政治科を卒業後、三菱造船会社営業課入り、後に長崎製鋼所に転じる戦後GHQ指令三菱重工23社に細分されかけた時、高官接近して贈賄し東日本・中日本・西日本の3社にとどまらせた。後に新三菱重工業社長。 四男・大助明治32年1899年11生 - 大正13年1924年11月没 五男・健亮(黒川健亮)明治35年1902年9月生 - 没 1927年京都帝国大学経済学部卒業1946年9月白木産業白木屋の子会社専務就任1956年6月蛇の目ミシン工業転じ、のち常務取締役就任趣味は碁。宗教神道。 同妻・辰子明治43年1910年4月生 - 没 山口県人、弘中武一の長女日本高専卒 次女・安喜子明39年1906年11月生 - 没 山口県人、吉賀忠夫の妻 五女・弥代子大正2年1913年3月生 - 没 弟・本黒川本明治6年1873年8月生 - 没 同妻・フサ明治14年1881年1月生 - 没 山口県人、山本梅治の女 妹・マサ明治9年1876年2月生 - 没 山口県士族妻木忠太の妻

※この「難波家」の解説は、「難波作之進」の解説の一部です。
「難波家」を含む「難波作之進」の記事については、「難波作之進」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「難波家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「難波家」の関連用語

難波家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



難波家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの難波家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの難波作之進 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS