難波宮・長岡宮の朝庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)
副都として造営された聖武天皇代の難波京の後期難波宮、桓武天皇の緊縮策にともなう複都制の廃止によって2つの都(難波京と平城京)を1つにまとめて成立した長岡京の長岡宮では、朝堂の殿舎は8堂しかなく、朝庭もふくめその規模はいっそう縮小されたが、北より大極殿、朝堂、朝集殿と南北に直線的に並ぶ朝堂院の構造には変わりがなかった。ただし、内裏と朝堂院との関係は、長岡宮をさかいとして大きく変化した。内裏と朝堂院はしだいに分離する傾向にあったが、平城宮・後期難波宮までは、内裏と朝堂院が南北に接していた。しかし、長岡宮にいたって内裏と朝堂院は分離し、内裏は朝堂院の東方に建てられるようになった。なお、「朝堂院」の語の史料上の初見は平安遷都直前の792年(延暦11年)のことであった。渡辺晃宏は、「朝堂院」の語の登場について、天皇の執務の場が大極殿から内裏正殿に移り、太政官院における朝政が衰退した結果であると指摘している。
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