後宇多天皇
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後宇多天皇(ごうだてんのう、1267年12月17日〈文永4年12月1日〉- 1324年7月16日〈元亨4年6月25日〉)は、日本の第91代天皇(在位:1274年3月6日〈文永11年1月26日〉- 1287年11月27日〈弘安10年10月21日〉)。諱は世仁(よひと)。
注釈
- ^ 「末代」とは末法思想による言葉で、おおよそ平安時代後期の11世紀後半ごろ以降の時代を指す。
- ^ 2000年、森茂暁は、後醍醐を朝廷の異端児と見なし、 後宇多は晩年、後二条天皇の長子(自らの嫡孫)である皇太子邦良親王の即位によって大覚寺統が早期に一本化することを望んでいたとし、中継ぎに甘んじない後醍醐天皇との父子仲は次第に疎遠になっていき、その結果後醍醐側の圧力で院政停止・天皇親政に至ったと推測した[7]。しかし、2007年、河内祥輔は、後醍醐の政策や行動に特異な点はなく、また政策的に見れば二人が対立する理由は存在しないと主張、後醍醐から後宇多への尊敬はきわめて大きいと見られ[8]、後宇多から後醍醐へも少なくとも政治的には信任していたのではないか[9]、とした。2020年、中井裕子もまた三条実躬の『実躬卿記』徳治2年(1307年)1月7日条(白馬節会での父子交流)や7月24日条(後宇多寵姫の遊義門院の快癒祈願のため尊治(後醍醐)が奔走したこと)などを引き、政治的にだけではなく、後宇多と後醍醐は心情的にも互いに仲の良い父子だったのではないか、と河内説を補強した[10]。
- ^ 「奉号後宇多院、是遺詔歟」
出典
- ^ 『上皇の日本史 (中公新書ラクレ) Kindle版』中央公論新社、2018年8月10日、1242頁。
- ^ 永村 2017, 横内裕人「仁和寺御室論をめぐる覚書」.
- ^ 永村 2017, 大田壮一郎「大覚寺門跡領の形成と展開」.
- ^ 稲葉 2019, pp. 153-161・174, 「鎌倉末期の王朝の寺社政策」.
- ^ 稲葉 2019, pp. 180–182, 「後醍醐天皇親政期の寺社政策」.
- ^ a b 中井 2020, pp. 28–29.
- ^ 森 2000, §2.2 践祚・即位にいたる経緯, §3.1 「一代の主」の克服.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 292–293.
- ^ a b 河内 2007, pp. 332–333.
- ^ 中井 2020, pp. 18–20.
- ^ 『実躬卿記』徳治2年(1307年)7月26日条
- ^ a b c d 花園天皇 1986, pp. 61–62.
- ^ a b c d 森 2000, §2.1.2 父後宇多院のこと.
- ^ 中井 2016, p. 34.
- ^ a b 中井 2016, pp. 37–39.
- ^ 亀田 2016, pp. 59–61.
- ^ 『花園天皇宸記』元亨4年6月25日条[注釈 3]
- ^ 河内 2007, pp. 337, 347.
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- 2 後宇多天皇の概要
- 3 系譜
- 4 后妃・皇子女
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