1277年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 09:10 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 12世紀 - 13世紀 - 14世紀 |
十年紀: | 1250年代 1260年代 1270年代 1280年代 1290年代 |
年: | 1274年 1275年 1276年 1277年 1278年 1279年 1280年 |
1277年(1277 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
カレンダー
できごと
誕生
- 1月21日 - ガレアッツォ1世・ヴィスコンティ、ミラノの僭主(+ 1328年)
- 赤松則村、鎌倉時代、南北朝時代の武将(+ 1350年)
- 関山慧玄、鎌倉時代、南北朝時代の臨済宗の僧(+ 1361年)
- ミカエル9世パレオロゴス、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(+ 1320年)
- 明峰素哲、鎌倉時代、南北朝時代の曹洞宗の僧(+ 1350年)
- 吉田隆長、鎌倉時代、南北朝時代の公卿(+ 1350年)
- ロベルト、アンジュー家のナポリ王(+ 1343年)
死去
- 5月5日(宝符5年4月1日) - 陳太宗、ベトナム陳朝の皇帝(* 1218年)
- 5月20日 - ヨハネス21世、第187代ローマ教皇(* 1215年)
- 6月11日(建治3年5月2日) - 北条時盛、鎌倉時代の武将(* 1197年)
- 7月1日 - バイバルス、マムルーク朝第5代スルタン(* 生年未詳)
- 9月16日(建治3年8月17日) - 北条義宗、鎌倉時代の武将、六波羅探題北方(* 1253年)
- 11月18日(建治3年10月22日) - 円照、鎌倉時代の律宗の僧(* 1221年)
- 11月29日(建治3年11月3日) - 東巌慧安、鎌倉時代の臨済宗の僧(* 1225年)
- 郭侃、元の将軍(* 生年未詳)
関連項目
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1277年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:55 UTC 版)
「モンゴルのビルマ侵攻」の記事における「1277年」の解説
詳細は「ンガサウジャンの戦い」を参照 パガンの軍事行動を阻止せよとの命令を受けた雲南方面の駐屯軍は行軍を始め、パガン軍はこれを永昌付近で迎え撃った。パガン軍が前線に配置した戦象部隊に、当初元軍の騎馬隊は立ち向かうことができなかった。しかし、元軍は指揮官の命令で馬から降り遠方からひたすら矢をいることで戦象を撃退し、再び馬に乗りビルマ軍を大いに打ち破った。この戦闘の経過についてマルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で詳細に述べている。 パガン軍は潰走したが、元軍の指揮官もまた負傷したため、元軍は深追いすることなく雲南へと戻った。同年、元軍はパガン領に一時的に侵入し、ビルマ北部のバモーを攻めてこの地域に駅伝を設置しようと試みたが、現地の熱病によって退却せざるを得なくなった。
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