1236年
1236年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 06:03 UTC 版)
詳細は「1236年」を参照 朝鮮にて、モンゴルの高麗侵攻のさなか、高麗八万大蔵経の板木(初雕本)が焼失する。 モンゴルのルーシ侵攻が始まる。
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1236年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:04 UTC 版)
「モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻」の記事における「1236年」の解説
詳細は「バトゥの西征(英語版)」を参照 この危機にあたり、内戦を続けていたヴォルガ・ブルガールの武将や首長たちは、共通の敵に対して連合を組むことに失敗していた。そこへ1236年の大規模侵攻が起こる。バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍がイリ渓谷を出てまずヴォルガ・ブルガールに襲い掛かり、首都ビリャルに45日間にわたる攻城戦(ビリャル包囲戦(英語版))を展開、これを陥落させ市民数万と守備軍を全員処刑した。さらにブルガール、スアル(英語版)、ジュケタウ(英語版)をはじめ、主だった都市や要塞を陥落させた。住民の多くは殺されるか奴隷に売られていった。ブルガールの武将たちは次々とモンゴル軍に帰順した。 ユリアヌスは、前回の訪問から2年後の1237年にヴォルガ・ブルガールを再訪した。しかし、そのときにはすでに廃墟しか残っていなかった。ユリアヌスは、ハンガリーに「タタール」の危機が迫っていることを知らせるために急いで戻ったという。
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