バトゥの西征とは? わかりやすく解説

バトゥの西征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 15:44 UTC 版)

モンゴルのルーシ侵攻」の記事における「バトゥの西征」の解説

詳細は「バトゥの西征(英語版)」を参照 1236年2月バトゥモンゴル帝国第2代カアン・オゴデイの命を受けて征西軍の総司令官となり、スブタイモンケ、そしてオゴデイ長男であるグユクらを副司令として出征した35,000人の弓騎兵からなるモンゴル西征軍ヴォルガ川越え1236年秋にヴォルガ・ブルガールへの侵略開始したこの後一年に及ぶ戦いで、ビリャル(英語版)やブルガール (都市)といった都市陥落しキプチャク草原キプチャク人包囲殲滅され、カスピ海から北カフカスまでの諸民族征服帰順された(モンゴルのグルジア侵攻)。以後ヴォルガ・ブルガール人、キプチャク人アラン人抵抗根絶された。 キプチャク征服後1237年11月バトゥウラジーミルウラジーミル・スーズダリ大公国大公ユーリー2世宮廷使者派遣しモンゴル服従するよう求めた。その一ヵ月後、モンゴル軍はまずプロンスク公国を陥とし、リャザン公国首都リャザンへの攻城戦開始した6日間に及ぶ激戦の末、リャザン陥落し完全に破壊された。この戦い知らせ受けたユーリー2世息子たちモンゴル軍討伐に赴かせたが完敗喫したコロムナモスクワ焼き払ったモンゴル軍は、1238年2月4日ウラジーミル対す攻城戦着手した3日後、北東ルーシ大国であるウラジーミル・スーズダリ大公国首都ウラジーミル陥落し徹底的に破壊された(ウラジーミル攻囲戦ロシア語版))。大公家族燃え聖堂の中で全員殺されかろうじて北へ逃げ延び大公ヴォルガ川の北で新たに軍を編成してモンゴル軍再度立ち向かったが、3月4日シチ川の戦い現在のヤロスラヴリ州)で完敗し戦死したバトゥこの後、広いルーシステップ地帯を完全かつ効率的に攻略するため、軍をより小さな部隊分けた。(三軍分けた推測する説もある。)モンゴル軍各部隊ルーシ各地へと散り国土略奪し荒廃させた。ルーシ北部14都市 - ロストフウグリチヤロスラヴリコストロマカシン、スクニャティノ(ロシア語版英語版)、ゴロデツハールィチガーリチ)、ペレスラヴリ・ザレスキーユーリエフ・ポリスキードミトロフヴォロコラムスクトヴェリトルジョーク破壊略奪さらされた。一方でモンゴル軍苦しめたのはコゼリスクという小さな都市で、年少の公ヴァシリーおよび住民は7週間わたって激しく抵抗したコゼリスク攻囲戦ロシア語版))。モンゴル側は4,000人の犠牲出しバトゥコゼリスク忌まわしい町だと漏らしたルーシ都市の中で、モンゴルによる破壊免れたのはモンゴル服従貢納約束した西部大都市スモレンスクと、森林湿地、春の悪路によって守られ北西部大都市ノヴゴロドプスコフだけであった荒廃したルーシ南部ステップ地帯住民は、ヴォルガ川オカ川囲まれルーシ北東部の、土壌貧し森林地帯へと移り住んでいった(スラヴ民族の北東ルーシへの移動)。ルーシ伝説上の町キーテジは、モンゴル軍避けるために住民全員とともに湖に沈み以後その姿を見せることがなくなったと言い伝えられている。 1238年の夏、南へ転じたバトゥクリミア襲い、さらに東部モルドヴィアルーシ東部ヴォルガ・ブルガール破壊した1238年の冬にはモンゴル軍は一旦休養のため北カフカス移り現地諸民族征服行っている(モンゴルのグルジア・アルメニア侵攻チェチェン侵攻英語版))。 1239年の冬には再びルーシ南部へと進みチェルニーヒウ公国首都チェルニーヒウチェルニゴフ包囲戦)とペレヤースラウ公国首都ペレヤースラウ陥落させ略奪しルーシの有力国家であった両国滅ぼした。この時のキエフ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチハールィチこもったまま動かずキエフには軍司令官ドミトルを派遣したのみだった。ルーシ南西部向かったバトゥ軍は1240年9月5日から12月6日にかけて行なわれキエフの戦いキエフ包囲し、これを完全に破壊してキエフ大公国名実ともに滅亡させた。結果的に最後キエフ大公となったダヌィーロ・ロマーノヴィチは、自身本拠地であるルーシ強国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を守るため頑強に抵抗したが、バトゥ軍に中心都市であるハールィチおよびヴォロディームィル・ヴォルィーヌスクィイ占領された。ルーシ諸国をほぼ破壊したモンゴル軍は、「地果て尽きるところ」まで行くことを決意しハールィチ・ヴォルィーニの地で分かれてポーランドモンゴルのポーランド侵攻)とハンガリーモヒの戦い)とへと侵入していった。

※この「バトゥの西征」の解説は、「モンゴルのルーシ侵攻」の解説の一部です。
「バトゥの西征」を含む「モンゴルのルーシ侵攻」の記事については、「モンゴルのルーシ侵攻」の概要を参照ください。

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