バトゥの西征
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「モンゴルのルーシ侵攻」の記事における「バトゥの西征」の解説
詳細は「バトゥの西征(英語版)」を参照 1236年2月、バトゥはモンゴル帝国第2代カアン・オゴデイの命を受けて征西軍の総司令官となり、スブタイ、モンケ、そしてオゴデイの長男であるグユクらを副司令として出征した。35,000人の弓騎兵からなるモンゴルの西征軍はヴォルガ川を越え、1236年の秋にヴォルガ・ブルガールへの侵略を開始した。この後一年に及ぶ戦いで、ビリャル(英語版)やブルガール (都市)といった都市は陥落し、キプチャク草原のキプチャク人は包囲殲滅され、カスピ海から北カフカスまでの諸民族が征服・帰順された(モンゴルのグルジア侵攻)。以後、ヴォルガ・ブルガール人、キプチャク人、アラン人の抵抗は根絶された。 キプチャク征服後の1237年11月、バトゥはウラジーミルのウラジーミル・スーズダリ大公国大公ユーリー2世の宮廷に使者を派遣し、モンゴルに服従するよう求めた。その一ヵ月後、モンゴル軍はまずプロンスク公国を陥とし、リャザン公国の首都リャザンへの攻城戦を開始した。6日間に及ぶ激戦の末、リャザンは陥落し完全に破壊された。この戦いの知らせを受けたユーリー2世は息子たちをモンゴル軍討伐に赴かせたが完敗を喫した。コロムナとモスクワを焼き払ったモンゴル軍は、1238年2月4日にウラジーミルに対する攻城戦に着手した。3日後、北東ルーシの大国であるウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラジーミルは陥落し徹底的に破壊された(ウラジーミル攻囲戦(ロシア語版))。大公の家族は燃える聖堂の中で全員殺され、かろうじて北へ逃げ延びた大公はヴォルガ川の北で新たに軍を編成してモンゴル軍に再度立ち向かったが、3月4日のシチ川の戦い(現在のヤロスラヴリ州)で完敗し戦死した。 バトゥはこの後、広いルーシのステップ地帯を完全かつ効率的に攻略するため、軍をより小さな部隊に分けた。(三軍に分けたと推測する説もある。)モンゴル軍の各部隊はルーシ各地へと散り、国土を略奪し荒廃させた。ルーシ北部の14の都市 - ロストフ、ウグリチ、ヤロスラヴリ、コストロマ、カシン、スクニャティノ(ロシア語版、英語版)、ゴロデツ、ハールィチ(ガーリチ)、ペレスラヴリ・ザレスキー、ユーリエフ・ポリスキー、ドミトロフ、ヴォロコラムスク、トヴェリ、トルジョークは破壊と略奪にさらされた。一方でモンゴル軍を苦しめたのはコゼリスクという小さな都市で、年少の公ヴァシリーおよび住民は7週間にわたって激しく抵抗した(コゼリスク攻囲戦(ロシア語版))。モンゴル側は4,000人の犠牲を出し、バトゥはコゼリスクを忌まわしい町だと漏らした。ルーシの都市の中で、モンゴルによる破壊を免れたのはモンゴルに服従と貢納を約束した西部の大都市スモレンスクと、森林や湿地、春の悪路によって守られた北西部の大都市ノヴゴロドとプスコフだけであった。荒廃したルーシ南部のステップ地帯の住民は、ヴォルガ川とオカ川に囲まれたルーシ北東部の、土壌の貧しい森林地帯へと移り住んでいった(スラヴ民族の北東ルーシへの移動)。ルーシの伝説上の町キーテジは、モンゴル軍を避けるために住民全員とともに湖に沈み、以後その姿を見せることがなくなったと言い伝えられている。 1238年の夏、南へ転じたバトゥはクリミアを襲い、さらに東部のモルドヴィア、ルーシ東部、ヴォルガ・ブルガールも破壊した。1238年の冬にはモンゴル軍は一旦休養のため北カフカスに移り現地の諸民族の征服を行っている(モンゴルのグルジア・アルメニア侵攻、チェチェン侵攻(英語版))。 1239年の冬には再びルーシ南部へと進み、チェルニーヒウ公国の首都チェルニーヒウ(チェルニゴフ包囲戦)とペレヤースラウ公国の首都ペレヤースラウを陥落させ略奪し、ルーシの有力国家であった両国を滅ぼした。この時のキエフ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチはハールィチにこもったまま動かず、キエフには軍司令官ドミトルを派遣したのみだった。ルーシ南西部に向かったバトゥ軍は1240年の9月5日から12月6日にかけて行なわれたキエフの戦いでキエフを包囲し、これを完全に破壊してキエフ大公国を名実ともに滅亡させた。結果的に最後のキエフ大公となったダヌィーロ・ロマーノヴィチは、自身の本拠地であるルーシの強国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を守るため頑強に抵抗したが、バトゥ軍に中心都市であるハールィチおよびヴォロディームィル・ヴォルィーヌスクィイを占領された。ルーシ諸国をほぼ破壊したモンゴル軍は、「地果て海尽きるところ」まで行くことを決意し、ハールィチ・ヴォルィーニの地で分かれてポーランド(モンゴルのポーランド侵攻)とハンガリー(モヒの戦い)とへと侵入していった。
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