バトゥによるモンゴル帝国軍の東欧侵攻
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「ワールシュタットの戦い」の記事における「バトゥによるモンゴル帝国軍の東欧侵攻」の解説
モンゴル帝国の第2代皇帝オゴデイは1235年のクリルタイで諸国への遠征を決議した。当時、モンゴル軍はチンギス・ハンの時代に中央アジアのホラズム帝国を征服し、西は黒海沿岸のグルジアまで達していた。西方遠征軍の総大将となったジョチ家の当主バトゥには5万の戦闘経験の豊かなモンゴル人と2万人の徴用兵、さらに漢族とペルシア人の専門兵が与えられた。モンゴル高原を出立したバトゥは、キプチャク草原やキエフ大公国をはじめとするルーシ諸国を征服した(モンゴルのルーシ侵攻)。 1241年3月12日にバトゥ率いる遠征軍はハンガリー王国をカルパティア山脈の東部から北部に掛けて諸方面から侵攻した。軍勢の4分の1がハンガリー軍を南ロシアの草原に誘き出すために送られ、バトゥ率いる主力部隊が黒海の北西沿岸にあるワラキアを破壊した後、ティサからペストへと接近した。
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