オゴデイ
オゴデイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/01 05:52 UTC 版)
| オゴデイ ᠦᠭᠡᠳᠠᠢ |
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| モンゴル帝国第2代皇帝(カアン) | |
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オゴデイ肖像(国立故宮博物院蔵)
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| 在位 | 1229年9月13日 - 1241年12月11日 |
| 戴冠式 | 1229年9月13日 |
| 別号 | 哈罕皇帝、合罕皇帝、太宗、科挙帝、英文皇帝、木亦堅合罕[1] |
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| 出生 | 大定26年9月25日 (1186年11月7日) |
| 死去 | 太宗13年11月8日 (1241年12月11日) ウテグ・クラン山 |
| 埋葬 | 起輦谷/クレルグ山 |
| 配偶者 | ボラクチン、ムゲ、キョルゲネ、ドレゲネ |
| 子女 | グユク、コデン、クチュ他 |
| 家名 | ボルジギン氏 |
| 父親 | チンギス・カン |
| 母親 | ボルテ |
オゴデイ(モンゴル語: ᠥᠭᠡᠳᠡᠢ / Өгэдэй, ラテン文字転写: Ögedei[注釈 1], ペルシア語: اوگتای, ラテン文字転写: Ūgtāy / Ugatay, 繁体字中国語: 窩闊台, 拼音: )は、モンゴル帝国の第2代皇帝(カアン[2])。モンゴル帝国の君主で初めて君主号をカアン(Qa'an < Qaγan)と名乗った[2][3]。チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。オゴタイ、オゲデイ[4]、ウゲデイ[5][6][7]とも表記される。元朝によって贈られた廟号は太宗[注釈 2]、諡は英文皇帝。
生涯
生まれ
第一次金遠征に従軍
1211年、ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイの兄弟はチンギス・カンの金朝遠征に従軍した[9]。チンギス・カンはこのモンゴルの軍隊にはきわめて厳重な規律を課し、千人隊、百人隊、十人隊にわけ、その指揮官を千人長、百人長、十人長と称した[9]。その上には万人隊(トゥメン)があり、将軍が指揮した。チンギス・カンの命令は副官たちへ伝えられ、副官たちからは万人長、千人長、百人長、十人長へと伝わった[9]。この戦いではモンゴル軍は勝利し、ジョチ、チャガタイ、オゴデイの諸皇子はそれぞれ一部隊の将として山西地方の長城以北の六州(雲内、東勝州、武州、朔州、豊州、寧州)を奪取し、他の部隊は河北にある都市を経略して海に達した[10]。
第二次金遠征に従軍
1213年、ジョチ、チャガタイ、オゴデイ指揮下の右翼軍は山西を征服し、ジョチ・カサルの指揮する左翼軍は河北の沿海地方を経略し、遼西地方を掠奪し、トルイを従えたチンギス・カン率いる中軍(コル)は河北、山東から黄河の河畔に至るまで歴戦して勝利を収めた[11]。
後継争い
西アジア遠征に先立ち、イェスイ妃の注意によってチンギス・カンは後継者を定めようとしたが、ジョチとチャガタイとの間に激しい口論が起きた[12]。このときチャガタイはジョチがメルキトの子であると侮蔑し、後継者にふさわしいのは自分であると主張した[13]。そこでチンギス・カンは兄弟の中で温厚な三男のオゴデイを後継者に指名した[12]。
ホラズム遠征に従軍
1219年秋、チンギス・カンはホラズム・シャー朝のオトラール付近に到着し、その軍隊を4つの部隊に分けた[14]。第一軍のチャガタイとオゴデイにオトラールを攻めさせ、第二軍のジョチにジャンドを攻めさせ、第三軍にバナーカトを攻めさせ、自ら率いる中軍(コル)はブハーラへ進撃した[15]。第一軍がオトラールを包囲したため、ガイル・カンは多数の守備兵を指揮し、カラージャ・カン[注釈 3]の1万も加わった[15]。5か月の包囲の後、軍隊も市民も気力を失ったので、カラージャ・カンは降伏を考えたが、ガイル・カンが死ぬまで戦うつもりだったため、夜に逃亡したところ捕まってしまう[15]。カラージャ・カンは助命を乞うたが信用されず殺された[17]。ガイル・カンはさらに1か月抵抗したが、モンゴル軍が城内に侵入し、捕らえられた[17]。チンギス・カンは彼を面前に連れてこさせ、溶かした銀をガイル・カンの両目と両耳に流し込むよう命令し、商人たちの復讐をした[17]。オトラールの城砦は徹底的に破壊され、モンゴル軍は殺戮を免れた住民をブハーラの正面へ連れて行った[17]。
1220年、チンギス・カンはジョチ、チャガタイ、オゴデイの軍を派遣し、君主アラーウッディーン・ムハンマドの王子であるウーズラーグ・シャーとアーク・シャーを討ち取った[18]。続いてホラズム州の州都グルガーンジュ(ウルゲンチ)の攻略にかかったが、攻略方法についてジョチとチャガタイの間で意見が食い違い、不和を起こして包囲戦は難航し、6か月間遅延した[19]。この時タールカーン要塞を攻略していたチンギス・カンはこのことを聞いて激怒し、ジョチ、チャガタイに代わってオゴデイを包囲軍の司令官に抜擢した[20]。オゴデイは温厚な性格で首尾よく両兄を和解させ、その厳格さによって在来の規律を回復することに成功した[20]。1221年4月、オゴデイは総攻撃を命令し、グルガーンジュを陥落させると、この都市の市民を虐殺し、せき止めていたジャイフーン川の堤防を破壊して氾濫させ、廃墟とした[21]。その後オゴデイとチャガタイは陥落後のタールカーンに赴いた[22]。
1222年春、チンギス・カンはオゴデイに命じてジャラールッディーン・メングベルディーの補給路になりうるガズニーの破壊を行わせた[23]。オゴデイは人口調査と称し、住民を市外に出させ、技芸と手工業に熟達した者を助けてモンゴル高原に送り、他をすべて虐殺し、廃墟とした[23]。6月、将軍イルジギデイはホラーサーンのヘラートを6か月包囲して陥落させ、一週間にわたって住民160万人を虐殺した[24]。さらにモンゴル軍はトルイの殺戮後に再び人口が回復しつつあったメルヴに立ち寄り、再び大殺戮をおこなった[25]。ガズニーの後、オゴデイはスィースターン攻囲をチンギス・カンに申し出たが、酷暑のため帰還を命じられた[26]。
西夏遠征に従軍
1225年末、チンギス・カンはタングート族の西夏帝国の攻略にかかった[27]。
1226年2月、チンギス・カンはオゴデイとトルイを随行させ、黒水城(カラ・ホト)をはじめ、多くの要地を占領し、甘州、粛州の両都市を占領した[28]。3月、チンギス・カンはオンゴン・タラン・クトクという地に幕営していた時、夢の中で自分の死期を予感したため、オゴデイとトルイを呼んだ[29]。そこでチンギス・カンは二人に、兄弟は一致団結して敵にあたること、オゴデイが後を継ぐこと、チャガタイのせいで紛擾しないこと、を伝えた[30]。
チンギス・カンの崩御
1227年、チンギス・カンが重篤な病にかかり、享年66で崩御した[31]。彼の残した軍隊129,000人は以下のように分配相続された[29]。
- 四男トルイ家 - 101,000人
- 長男ジョチ家 - 4,000人
- 次男チャガタイ家 - 4,000人
- 三男オゴデイ家 - 4,000人
- 六男クルゲン家 - 4,000人
- 末弟テムゲ・オッチギン家 - 3,000人
- 甥アルチダイ家 - 3,000人
- 母ホエルン・エケ家 - 3,000人
- 次弟ジョチ・カサル家 - 1,000人
末子相続により、チンギス・カンの大部分を相続したトルイは摂政となり、葬儀を執り行った。その後2年間は空位が続き、長期にわたる空位は弊害を招く恐れを感じたため、一族は新皇帝を選挙すべきであるとし、1229年春ケルレン河畔に集結した[32]。オゴデイは所領であるエミル河畔から来会した[32]。
クリルタイにて第2代皇帝に即位する
新皇帝選挙のためクリルタイが開催されると、最初の三昼夜は宴会をおこない、その後選挙について討議した[32]。参会者の多くはトルイ推挙に傾いていたが、大臣の耶律楚材はオゴデイを強く推し、生前の遺言に従ってトルイもそれに賛同したため、一同はオゴデイに票を投じた[33]。しかしオゴデイ自身は年長者である叔父や兄、あるいは摂政であるトルイを差し置いてなるわけにはいかないと固辞し、40日が過ぎた[33]。そして41日が経過すると諸侯の熱烈な懇請を受け入れて兄チャガタイと叔父のテムゲ・オッチギンの先導によって玉座に就いた(1229年9月)[33]。オゴデイは父帝の「チンギス・カン」の称号を襲名せず、新たに「カアン Qa'an」という称号を採用し、皇帝号とした[33]。
オゴデイの初政
オゴデイが政務にあたる上で第一に配慮したのは「チンギス・カンのヤサ」の厳守であった[34]。ただし、チンギス・カンの死後からオゴデイ即位の日までの犯罪はすべて赦免した[35]。耶律楚材はオゴデイの識見を深く信頼し、法規を設けて官吏の位階を定め、他の臣民に対する帝室諸王侯の特権を明確にし、臣民相互の間ならびに皇帝に対して遵守すべき儀礼を規正するよう説得した[35]。また、耶律楚材は征服地におけるモンゴル司令官の無限の権力を制限することを提言し、皇帝による訴訟審理の手続きを設けて将校が被告を処分する際にこれに従わせることとした[35]。同時に毎年の課税の規定も初めて設けられた[35]。西方の領土においては税はすべて男子に課せられていたが、中国におけるモンゴル占領地方では在来の慣習に従って戸籍ごとに課税していた[35]。中国人は銀、絹、穀物を納税し、モンゴル人は馬、牛、羊の100頭につき1頭を納税した[35]。皇帝の使節の往来のための駅伝(ジャムチ)も置かれた[35]。金朝で財政の職にあった耶律楚材は占領した金朝の領土を十路に分け、各路に租税と賦課にあたるための十路徴収課税所を置き、中国人の徴収課税使と副使を置いた[35]。
次なる征服事業
1229年のクリルタイの際に故チンギス・カンの大計画に従って次なる3つの遠征計画が決められた[36]。1つ目は3万からなるチョルマグン・ノヤン率いるホラズム・シャー朝の残党の掃討作戦軍。2つ目は3万からなる将軍ココシャイとスブタイ率いるキプチャク人、サクスィーン人、ブルガル人征服軍。3つ目はオゴデイとトルイ率いる金朝征服軍であった[36]。チンギス・カンの死後も継続して金朝攻略は進められていた[37]。
第四次金遠征
1230年8月、オゴデイとトルイは進軍して金朝の約60の要塞を破壊し、鳳翔府を包囲した[38]。これに金朝政府は講和を申し出たが、オゴデイは降伏を要求したので決裂し、包囲は続けられた[38]。1231年5月になり、鳳翔府城内は食糧危機に陥ったため、ついに降伏して陥落した[38]。これにより、残るは河南地方のみとなったが、河南は北は黄河、西は潼関の要塞と峻嶺の要害に阻まれており、この地方へ侵入することは困難であった[39]。そのとき鳳翔府で降った金朝の官吏である李国昌が南から侵入する策をトルイに提議してきた[40]。その策が生前チンギス・カンが言っていた計画と一致したため、トルイはそれを受け入れてオゴデイに上奏、オゴデイはその実行をトルイに命じた[40]。この時、南からの進入路は南宋帝国の領地を通過する必要があったため、オゴデイは南宋にその許可をとるための使者を派遣したが、その使者は殺されてしまう[40]。トルイは意に介さずそのまま進軍し、南から漢中府に入ってその住民を虐殺、そこから西方へ向かって城塞140を陥落させた[41]。12月、トルイは饒風関を陥落させ、漢水のほとりに幕営した[41]。金軍は南方に出現したトルイ軍を見て驚愕した[41]。一方のオゴデイ軍は山西の南端部の河中府を攻略した(1232年1月)[42]。オゴデイはトルイが漢江を渡ったことを聞くと、自軍も黄河を渡り、2つのモンゴル軍は南と東から関中地方に入った[43]。トルイ軍は鈞州城を陥落させ、金の将軍である完顔合達、完顔陳和尚を捕らえた[44]。オゴデイは金の将軍の移剌蒲阿を捕らえ、降るようにすすめたが、拒否したため処刑した[45]。
1232年4月、オゴデイは将軍スブタイを派遣して首都卞京を包囲させた[46]。オゴデイは金の皇帝完顔寧甲速(ニンキャス)に降伏勧告を行い複数の条件を突きつけると、あとはスブタイに任せてモンゴル高原へ帰還した[47]。完顔寧甲速はすべての要求をのんだが、スブタイが弩砲と投石を発射し始めたため、両軍は戦闘を開始した[48]。金軍は震天雷と呼ばれる火薬を詰めた壺を弩砲で発射したり、飛火槍と呼ばれる発火投槍を発射したりして応戦した[49]。両軍の戦死者は100万人にのぼったため、スブタイ軍と籠城軍は講和し、モンゴル軍は退却した[49]。完顔寧甲速は首都を棄てて帰徳府に逃れた[50]。
金の滅亡
1233年2月、再びスブタイは卞京を包囲した[51]。卞京は飢餓状態に陥っていたため、金の西面元帥である崔立はクーデターを起こし、完顔承格を監国としてスブタイに降伏を申し出た[52]。崔立はスブタイに会って降伏すると、信頼を得るために完顔承格とその他皇族を監禁し、府軍の財宝、皇帝皇后の礼服をスブタイに献上した[52]。さらに監禁していた皇族たちも手渡すと、スブタイは太后、皇后、妃らをカラコルムへ送り、他は殺害した[53]。オゴデイは南宋の皇帝理宗(趙昀)に共同で金朝を攻撃する同盟を結び、南宋は金朝崩壊後に河南地方をもらう約束をした[54]。10月、金の皇帝完顔寧甲速が蔡州へ逃れたため、将軍のタチャルは蔡州城を包囲した[55]。12月には同盟によって南宋軍がやってきて30万袋の米を補給された[55]。
1234年2月、完顔寧甲速は完顔承麟に位を譲った[56]。即位式の最中タチャル軍と南宋軍が城内に進入してくると、完顔寧甲速は自害した[57]。完顔承麟らはタチャルに降り、118年続いた金朝は滅んだ[58]。
トルイの死
1232年5月に、オゴデイとトルイは金攻略をスブタイとタガチャルらに任せて河南を出発したが、長城を過ぎたあたりでオゴデイが病となった[59]。それが回復してから二人はモンゴル高原のオノン川に赴いたが、10月にトルイは亡くなってしまう[59]。享年41歳だった[59]。[注釈 4]
1235年のクリルタイ
1234年、オゴデイはダラン・ダバスの地でクリルタイを開催した[61]。翌年(1235年)にもオルホン河畔の新都カラコルムでクリルタイを招集した[61]。この会議では南宋遠征軍、高麗遠征軍、ジョチの子バトゥを総司令官とする征西軍も決められた[62]。金遠征中に将軍チョルマグンによってホラズム・シャー朝の残党が殲滅され、その君主ジャラールッディーン・メングベルディーは死去していたため、将軍フカトにはカシミールとインドの攻略を命じた[62]。オゴデイはまた遊牧民は百頭につき1頭を、農民は収穫物の10分の1を税として納めさせ、貧民の救済に充て、使者の往来を迅速にするため帝国全土に駅伝(ジャムチ)を設けさせた[62]。
カラコルム宮殿の建築
オゴデイは中国から多数の熟練した技芸家と職人を連れてきてカラコルムの新ユルトの中に広大な宮殿を建造させた[63]。オゴデイの新宮殿は中国の彫刻師と画工によって豪華に装飾され、庭園をめぐらせ4つの門を備えていた[63]。1つ目の門は皇帝の出入口であり、2つ目は皇族、3つ目は皇族の夫人たち、4つ目は公衆の出入口であった[63]。この宮殿の周囲に諸王侯、大官の邸宅が建てられた[63]。1235年には周囲に城壁をめぐらせ、中国への途上に37のジャムチを設け、毎日帝国各地から食料と酒を満載した500輌の車が到着した[63]。
1236年に盛大な宴を開いて新宮殿の落成を祝い、中書礼の耶律楚材に特別の恩寵を施した[64]。オゴデイは耶律楚材の優れた能力を信頼し、帝国の財政を任せた[64]。
耶律楚材の功績
1236年6月には交鈔と呼ばれる紙幣を占領下の中国で導入し、耶律楚材の提案に従って1万錠の発行額とした[65]。あるとき税に関して租税を人に課すのか戸に課すのかで意見が分かれた。モンゴルの大臣は西方のイスラム諸国にならって男子ひとりごとに租税を課すべきとしたが、耶律楚材は中国にならって戸ごとにすべきとしたため、オゴデイは耶律楚材に従って戸ごとにすることに決めた[66]。その他諸王侯の土地の分配、地税、商税も法律によって決められた。耶律楚材はオゴデイに周公、孔子の教えを説き、帝国の行政に有益であるとしてそれをもとに政府と役人の十八か条を提案した[67]。
1237年、耶律楚材はそれまで諸王侯が駅馬を好き勝手に徴発したり、いたるところで夫役を強要していたので、駅馬を支給する際に特別の旅券(駅券)を提示させる規定を発し、旅行者の地位に応じてその要求する権利のある馬匹の数を定めた[67]。また、役人の考試(登用試験)を導入し、儒教に基づく試験で4030人の儒者役人を採用した[68]。同時にモンゴル人の教育にも着手し、燕京と山西の平陽に2つの大学(経籍所)を創設し、モンゴルの貴族の子弟を入学させ、歴史、地理、数学、天文学を学ばせた[69]。
高麗遠征
1232年に高麗国王高宗王皞は高麗国内で職権濫用していたモンゴル知事(ダルガチ)をすべて殺し、帝国に反旗を翻した[70]。9月、それを鎮圧するために派遣した将軍サルタイは戦死した[70]。これに対しオゴデイは入朝して弁明することを要求したが、高麗王はこれに応じなかった[70]。そこで1235年のクリルタイで高麗征伐が決定し、将軍タングタイの討伐軍が派遣された[71]。
南宋との戦い
金朝滅亡後、同盟によって河南の地をもらうはずだった南宋は陳州と蔡州の東南にあたる一部しかもらえなかったため、1234年8月卞京に侵攻し、洛陽をも占領した[72]。しかし、先の戦争で両都市は荒廃していたため、南宋軍は食糧不足となって撤退した[73]。
1235年1月、オゴデイは南宋の朝廷に使節を派遣して盟約を破ったことを非難した[74]。そして南宋の弁解を待たずして南宋遠征がクリルタイで決定され、オゴデイの次男クテンと将軍タカイ・ガンポの軍は四川方面から侵攻し、三男クチュと将軍テムテイの軍は湖広へ進軍し、コウン・ブカと将軍チャガンの軍は江南で行動することとなった[74]。これらの軍はモンゴル人、契丹人、中国人の精鋭部隊からなっていた[74]。1236年から1237年にかけてクテンの軍は四川地方をことごとく占領した[75]。一方のクチュは1236年に湖広から侵攻し、棗陽と徳安府を取ったが、11月に戦死した[76]。クチュはオゴデイが帝位を継がせる予定であった[76]。テムテイは荊州を包囲していたが南宋の将軍孟珙に敗れた[76]。将軍チャガンも将軍丘岳によって敗れた[76]。コウン・ブカは1237年の末に光州、蘄州、随州を奪取し、黄州府を包囲したが、孟珙によって撃退された[77]。
1238年、チャガンは江南の廬州府を包囲したが10月に退却した[77]。
ヨーロッパ遠征
1236年からは甥でジョチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガール、キプチャク、アラン諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ポーランド王国(ピャスト朝)、ハンガリー王国(アールパード朝)など東欧の大半までを制圧するに至った。
オゴデイ崩御
高麗遠征、ヨーロッパ遠征、南宋遠征の間、オゴデイは狩猟と飲酒にふけっており、カラコルムから1日の距離にあるカルチャガンの離宮に住んだり[注釈 5]、オルメクトという地で過ごしたり、クケ・ノールで過ごしたり、オンギで狩猟したりと悠々自適に暮らした[78]。オゴデイは度を越して飲酒にふけるようになる[79]。チンギス・カンも生前これに対して叱責していたし、チャガタイも1人の将校に監視させていた[79]。ついにオゴデイはチェチェク・チャガン沢付近における狩猟から帰るなり病気にかかった(1241年3月)[79]。皇后のドレゲネは狼狽し、耶律楚材にどうすればよいか尋ねると、耶律楚材は正義と慈悲の政治を行い、大赦をおこなうことを勧めた[80]。ドレゲネは直ちに大赦をおこなうと、オゴデイは少し回復した[80]。11月、オゴデイはまた病気になり、耶律楚材の諫めを無視して狩猟に出かけた[80]。そこでオゴデイはウテグ・クラン山の付近で深夜まで飲酒に興じた[80]。翌朝オゴデイは寝床に臥したまま絶命していた[80]。享年56、その遺体は起輦谷に葬られた[80]。[注釈 6]
名称について
漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などではウーグターイ・カーアーン(ペルシア語: اوگتاى قاآن, ラテン文字転写: Ūgtāy Qā'ān)、『五族譜』ではウーカダイ・カーン(ペルシア語: اوُكَدى خان, ラテン文字転写: Ūkaday Khān)などと綴られる。
名前
オゴデイの名前表記は複数あり、下記に示すように決定的なものはない。
彼の名の記し方には「ウゲデイ」のほかに「オゴデイ」などがあって混乱している(歴史教科書には「オゴタイ」とするものが多いが、近年の研究では「オゴデイ」と読むのが正しいとされる)。その原因のひとつにモンゴル語文法がある。モンゴル語には「母音調和」という規則がある。古代日本語にもあったとされるアルタイ諸語の特徴である。それは母音には男性母音と女性母音とがあり、ひとつの単語はどちらか一方の性の母音だけで成り立つということだ。異なる性の母音がひとつの単語に共通することは原則的にありえない。男性母音にはaとo、女性母音にはuとeがある(iは中性母音といい、どちらとも共存することができる)。(中略)
厄介なことにモンゴル語の母音には、さらにuとoの中間的な発音をするものがある。「ウゲデイ」の場合は、まさにそれにあたる。それをカナ表記するのは難しい。「ウ」で始めるなら、母音調和の原則にしたがって「ウゲデイ」とするのがよいだろう。ただ「オ」で始まる「オゴデイ」は男性母音と女性母音が混在してモンゴル語らしくない。 — 白石典之『チンギス・カン ”蒼き狼”の実像』pp157-158
古典モンゴル語文に従えば「ウゲデイ(Ögedei)」、パスパ文字モンゴル語文に従えば「ウクデイ(Öködeï)」、『集史』に従えば「ウーグターイ(Ūgtāy)、『五族譜』に従えば「ウーカダイ(Ūkaday)」となる[82]。
「カアン」号
オゴデイはモンゴル皇帝で「カアン」号を称した最初の人物と目される[83][3]。オゴデイ治世中に華北の全真教や仏教寺院などに建立された碑文には「窩闊台皇帝」以外に、「哈罕皇帝/合罕皇帝」(カアン皇帝)とも書かれており、父のチンギス・カンが「成吉思皇帝」、息子のグユクも「谷由皇帝」と名前がそのまま音写されて呼ばれたことと対照的に、「カアン」単独または「カアン・カン」で呼ばれている[2][3]。 次代のグユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた1246年11月上旬の日付けを持つ親書がバチカンに現存するが、書簡中でグユクは祖父チンギス・カンと自らを「チンギズ・ハーン(ペルシア語: جنكيز خان, ラテン文字転写: Chingiz khān)」と「ハーン خان khān(カン)」[注釈 7]とそれぞれ称しており、父オゴデイには「カーアーン قاآن Qā'ān(カアン)」という称号で呼んでいる[3]。同様の書き分けは1260年に書かれたジュワイニーの『世界征服者の歴史』や14世紀初頭のラシードゥッディーンの『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語資料にも見られ、さらに華北の漢語やウイグル文字、クビライ治世以降のパスパ文字などによるモンゴル語碑文資料にもこの種の書き分けが見られる。モンケ以後、モンゴル皇帝にあった全ての人物は「 Qā'ān(カアン)」の称号で呼ばれている[3]。
宗室
系譜情報については『集史』などイルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。
妻妾
オゴデイの皇后について、根本史料である漢文史料の『元史』とペルシア語史料の『集史』の記述は、合致する部分と合致しない部分がある。最大の問題は、『元史』では「二皇后」「六皇后」のように序列を示す数字があるのに対し、『集史』では「オゴデイ・カアンは……よく知られている彼の尊敬された皇后は4人であった[84]」と述べて4人の高位の妃(大ハトゥン)を列挙する点で、この差異をどう解釈するかで研究者の見解は分かれてきた。しかし近年では、内モンゴルの研究者Buyandelgerが『元史』と『集史』の差異を次のように整理している[85]。恐らく、オゴデイは当初父を見習って「四大皇后」を立てたが、後に数を増やして「六大皇后」とし、その序列が『元史』に一部記載された[85]。しかし、二皇后アルクイらが早くに亡くなったため、恐らくはその穴を埋める形で六皇后ドレゲネと四皇后ジャジンが地位を向上させ、結果として『集史』は最後に残った4人の皇后のみを記録したものであると[85]。
皇后
- 正宮 ボラクチン:『元史』『集史』ともに一致してオゴデイの后妃の中で最も地位が高かったとする。
- 二皇后 アルクイ:『集史』では言及されず、『元史』にのみ「昂灰」として名が挙げられる。幼少期のモンケを養育したとの逸話がある。
- 三皇后 キルギクテニ:『集史』では言及されず、『元史』にのみ「乞里吉忽帖尼」として名が挙げられる。晩年はコデンの一族と行動をともにしており、コデンの生母とみられる。
- (四皇后)ジャチン:『元史』では言及されず、『集史』にのみ(jājin)として名が挙げられる。『元史』で脱落する「四皇后」に相当するのではないかとみられる。
- (五皇后)モゲ:『元史』では言及されず、『集史』にのみ(mūkāī)として名が挙げられる。『元史』で脱落する「五皇后」に相当するのではないかとみられる。
- 六皇后ドレゲネ:オゴデイの没後、上位の后妃が全て死去していたため、息子のグユクが即位するまで国政を掌握した。
その他側室
男子
息子たちについては『集史』『元史』[注釈 11]ではともに7人とする。一方で、オゴデイの存命中にモンゴル帝国を訪れた南宋の使者が著した『黒韃事略』ではオゴデイの息子として闊端(コデン)、闊除(クチュ)、河西䚟(カシダイ)、合剌直(カラチャル)の4名のみを挙げているが、恐らくはこの4名が本来嫡出で皇位継承権を有する太子であったものとみられる[88]。しかし、オゴデイが死去した際にはコデンは重病に冒されて不適格、クチュとカシダイ(恐らくカラチャルも)は父に先だって死去、という状況であっため、生母ドレゲネの意向もあって第三代皇帝には庶長子のグユクが立てられることとなった。また、甥のモンケを養子とし、二皇后アルクイに養育させていた。トルイが亡くなった後、実家へ戻るよう命じている。
- 長男 グユク:生母は六皇后ドレゲネ。庶長子であったが、第三代皇帝(カン)となる。
- 次男 コデン:生母は三皇后キルギクテニと推定される。オゴデイの後継者候補であったが、後に病態となり後継者となり得なかった。
- 三男 クチュ:生母は正宮ボラクチンと推定される。そのためか、グユク、コデンという兄がいながらオゴデイ存命中に後継者とされていた。[注釈 12] - シレムンの父
- 四男 カラチャル:生母は四皇后ジャチンと推定される。事蹟については全く記録がないが、文書行政に長けたタタ・トゥンガ家が仕えている。
- 五男 カシン:生母は二皇后アルクイ。「太子」と呼ばれる後継者候補であったが、父に先立って死去した。カイドゥの父としても知られる。
- 六男 カダアン・オグル:生母は側室のエルゲネ。本来は嫡出子に比べ低い地位であったが、トルイ系のモンケ、クビライの即位を助けて家格を向上させた。
- 七男 メリク:生母は側室のエルゲネ。カダアンと同じく本来は低い地位であったが、トルイ系のモンケ、クビライの即位を助けて家格を向上させた。
女子
脚注
注釈
- ↑ ᠥᠭᠦᠳᠡᠢ Ögüdei 表記も存在する。
- ↑ クビライの至元元年十月(1264年10月22日 - 11月20日)、大都の太廟に「七室之制」が定められた時、イェスゲイ、ホエルン以降のチンギス・カンをはじめとするモンゴル皇帝、王族、皇后妃に対して尊諡廟号が追贈され、オゴデイにも「英文皇帝」の諡と「太宗」の廟号が設けられた[8]。
- ↑ ハージブ(侍従)・カラージャとも呼ばれる[16]。
- ↑ ゴービル『元朝史』74頁によると、オゴデイの生命が重病のため危うくなったとき、「トルイは跪いて自分の名を札の中に封記して、兄の生命を救うように天に祈り、兄の身代わりになることを乞うた」と記されている。『元史』巻115睿宗列伝の該当記事はドーソンの記事とやや異なり、「トルイは天地に祈って身をもってこれに代わることを請い、また巫覡(ふげき、カム)が祓い浄めた水を取って飲んだが、数日にしてオゴデイの病気は治癒した。(中略)トルイは北へ帰ってから病気になって死んだ。」とある。ラシードゥッディーンも同様にトルイがその兄のために一命を捧げたと伝えている。ラシードゥッディーン『集史』「オゴデイ・カアン紀」では「トゥールーイ(トルイ)はウーグターイ(オゴデイ)が病気になったのを見舞いに行って、その病床の傍らに水を満たした木の器があるのを見たが、巫術によってカーアーン(カアン)の病気を治すために呼ばれたカムたちがこの水をカーアーンの身体の疾患部に湿らせていった。トゥールーイはこの器を取り、天に向かって祈祷して言うに“長世の天よ、もし、汝が人間の罪業のゆえに激怒したのであれば、私がウーグターイ以上に罪業が深いことを汝は知っているはずです。であれば私は戦争で多数の人を殺しました。私はより多くの婦人と子供を駆り立てました。私は多くの父母たちにより多くの涙を流させました。しかし、汝が反対に汝の従僕たちの一人をその美貌と才能ゆえをもってみもとに召し給うのであれば、その点にかけて私の方がよりふさわしいのですウーグターイに代わって私を召し、彼をこの病から救い出してその病を私に遷し給え”と。同時にトゥールーイはカムによって呪文のかけられた盃の水を飲んだ。ウーグターイは治癒したが、トゥールーイは間もなく死んだ。この話はよく知られている。トゥールーイの寡婦スユールクークティーニー・ビーキー(ソルコクタニ・ベキ)はしばしばこのことを引き合いに出していた。」。ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』ではこの献身犠牲の行為については述べていない。ジュヴァイニーはただトルイは中国から帰還すると、過度に飲酒に耽り、そのため病気にかかり、2~3日のうちに死んだと述べるにとどまる。ジュヴァイニーは付言するに「カーアーンはこれを深く悲しみ、終生、これを嘆き、悼み続けた。彼は酒に酔うごとに涙を流してこう言うのであった。“私が飲酒に耽るのは、私が被った損失の襲撃によるものなのである。私は酩酊して私の心の慰みを求めるものである”と。」。トルイの身代わりに関するこの物語は『元朝秘史』でもやや異なった表現で記され、文学的な表現で記されている。那珂通世『成吉思汗実録』復刻本、p522-525を参照。[60]
- ↑ この離宮はカラコルム宮殿を建てた中国人建築師とペルシア人建築師によって造営されたものであった[78]。
- ↑ オゴデイの死には不明瞭な部分がある。毒殺の気配も漂う。また、忠臣として誇大視されがちな耶律楚材が絡んでいる疑いさえある。実はオゴデイは正確にいつ死んだのかさえ史料で食い違う。さらに微妙な問題は「盟友」チャガタイが前後して他界していることである。チャガタイの場合も史料の記述が妙にあいまいで、正確な死亡時期を確定できない。[81]
- ↑ ペルシア語発音だと「ハーン Khān」と長母音発音だが、日本語(モンゴル語)表記では「ハン Khan」と短母音にするのが正しい。
- ↑ 「太宗。正宮孛剌合真皇后。脱列哥那六皇后、乃馬真氏、歳壬寅太宗崩、后攝国、凡四年。至元二年追諡昭慈皇后。昂灰二皇后。乞里吉忽帖尼三皇后。禿納吉納六皇后。業里訖納妃子、滅里之母。」[86]
- ↑ カダアン・オグルの生母。
- ↑ メリクの生母。『集史』編纂後に書かれたイルハン朝後期の資料『バナーカティー史』ではエルゲネはカダアン・オグル、メリク両名の生母とする。
- ↑ 「太宗皇帝、七子:長 定宗皇帝、次二 闊端太子、次三闊出太子、次四 哈剌察児王、次五 合失大王、次六 合丹大王、次七 滅里大王。」[87]
- ↑ オゴデイ存命中に後継者とされたが、総司令として次兄のコデンらとともに派遣された南宋遠征中に陣没(1236年2月)。オゴデイは後継者の地位をその遺児シレムンに与えたという[89]。
出典
- ↑ 柯劭忞 (中国語). 《新元史‧卷四‧本紀第四‧太宗》. 中華民國. "秋八月已未,諸王百官會於怯綠連河闊迭額阿剌勒,請帝遵太祖遺詔即位,共上尊號曰木亦堅合罕。皇兄察合台持帝右手,皇叔斡赤斤持帝左手,皇弟拖雷以金杯進酒贊。帝東向拜日,察合台率皇族及群臣拜於帳下。"
- 1 2 3 杉山 2014, p. 248.
- 1 2 3 4 5 杉山 1990, p. 13.
- ↑ 森川 2007, p. 28.
- ↑ 佐口 1968.
- ↑ 佐口 1971.
- ↑ 佐口 1973.
- ↑ 『元史』巻七十四 祭祀志上 序言 による。
- 1 2 3 佐口 & 1968-3, p. 109.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 114-115.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 121-122.
- 1 2 村上 1976, p. 184.
- ↑ 村上 1976, p. 172.
- ↑ 佐口 & 1968-3, pp. 189–191.
- 1 2 3 佐口 & 1968-3, p. 191.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 193.
- 1 2 3 4 佐口 & 1968-3, p. 192.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 228-229.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 231.
- 1 2 佐口 & 1968-3, p. 232.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 234.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 252.
- 1 2 佐口 & 1968-3, p. 268.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 270.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 271.
- ↑ 佐口 & 1968-3, p. 273.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 16.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 17.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 23.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 24.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 25.
- 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 63.
- 1 2 3 4 佐口 & 1968-12, p. 64.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 67.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 佐口 & 1968-12, p. 68.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 69.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 70.
- 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 72.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 73.
- 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 74.
- 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 75.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 77.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 78.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 79.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 80.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 82.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 83.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 84.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 85.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 88-89.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 90.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 91.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 92.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 94.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 96.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 97-98.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 98.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 99.
- 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 101.
- ↑ 佐口 & 1968-12, pp. 103, 104.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 104.
- 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 105.
- 1 2 3 4 5 佐口 & 1968-12, p. 108.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 109.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 110.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 111.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 113.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 114.
- ↑ 佐口 & 1968-12, p. 115.
- 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 116.
- 1 2 佐口 & 1968-12, p. 117.
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- 1 2 3 4 佐口 & 1968-12, p. 123.
- 1 2 3 4 佐口 & 1968-12, p. 124.
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- 1 2 3 4 5 6 佐口 & 1968-12, p. 128.
- ↑ 杉山・北川 2008, p. 130.
- ↑ 白石 2006, p. 158.
- ↑ 杉山 2016, p. 30-31.
- ↑ 松田 1996, p. 23.
- 1 2 3 Buyandelger 2024, p. 171.
- ↑ 『元史』巻一百六 表第一 后妃表
- ↑ 『元史』巻一百七 表第二 宗室世系表
- ↑ Buyandelger 2024, pp. 176–177.
- ↑ 『集史』「オゴデイ・カアン紀」などによる。
- ↑ 宇野 1993, pp. 76–78.
参考資料
書籍
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 1巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫110〉、1968年3月。ISBN 4582801102。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。 ISBN 4582801285。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 3巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫189〉、1971年1月。 ISBN 4582801897。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 4巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫235〉、1973年1月。 ISBN 4582802354。
- 白石典之『チンギス・カン ”蒼き狼”の実像』中央公論新社〈中公新書〉、2006年1月。 ISBN 4-12-101828-1。
- 森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社〈白帝社アジア史選書 9〉、2007年5月1日。 ISBN 978-4891748449。
- 杉山 正明、北川 誠一『世界の歴史〈9〉大モンゴルの時代』中央公論新社〈中公文庫 S 22-9〉、2008年8月25日。 ISBN 978-4122050440。
- 杉山正明『大モンゴルの世界』KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年12月。 ISBN 978-4-04-409218-4。
- 杉山正明『興亡の世界史 モンゴル帝国と長いその後』講談社〈講談社学術文庫〉、2016年4月。 ISBN 978-4-06-292352-1。
論文
- 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』第52巻第3号、東洋史研究會、1993年12月31日、399-434頁、 CRID 1390572174787676416、 ISSN 0386-9059、 NAID 40002660243。
- Buyandelger(宝音徳力根)「窩闊台子孫的“太子” 称号及汗位継承権問題」『中国史研究』、中国社会科学院古代史研究所、2024年、170-188頁。
- 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』1996年、21–65頁。
関連項目
外部リンク
- 杉山正明「元代蒙漢合璧命令文の研究(一)」『神戸市外国語大学外国学研究』第21巻、神戸市外国語大学外国学研究所、1990年3月、1-31頁、 ISSN 0289-9256。
- 那珂通世訳注 『成吉思汗実録』(大日本図書、1907年) … 学者らによるオゴデイの人物評を多く引用している
- 故那珂博士功績紀念会 「校正増注元親征録」『那珂通世遺書』(大日本図書、1915年) … 校注者のひとり何秋濤によるオゴデイ死去の考察がある
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