ティムール朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/04 16:28 UTC 版)
| イラン及びトゥーラーン(ティムール朝) | |||||
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| ایران و توران | |||||
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最盛期のティムール朝の支配領域(深緑)と一時的な占領地域(緑)
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| 国の標語:راستى رستى (ペルシア語 : 正直に救いがある) |
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| 公用語 | ペルシア語 チャガタイ語 ウズベク語 アラビア語 |
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| 宗教 | イスラム教スンナ派 | ||||
| 首都 | サマルカンド ヘラート |
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| スルターン | |||||
| 1370年 - 1405年 | ティムール | ||||
| 1451年 - 1469年 | アブー・サイード | ||||
| 1506年 - 1507年 | ムザッファル・フサイン | ||||
| 宰相 | |||||
| 1469年 - 1489年 | ナヴァーイー | ||||
| 面積 | |||||
| 1405年 | 4,400,000km² | ||||
| 変遷 | |||||
| 成立 | 1370年4月10日 | ||||
| ティムールの死 | 1405年2月18日 | ||||
| 分裂 | 1469年 | ||||
| 滅亡 | 1507年 | ||||
| 現在 | |
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ティムール朝(ティムールちょう、ペルシア語: تیموریان、Tīmūriyān、ウズベク語: Temuriylar)は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)とイラン東部のホラーサーンを中心に、中央アジアから勃興した国家として史上最大の版図を持つ王朝[1]。モンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアから西アジアにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)[2]。
その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い[3]。
概要
1370年に政権を握ったティムールはサマルカンドを首都とし、絶え間ない征服活動によって中央アジア、アフガニスタン、イラン、イラクを支配下に入れ、その周辺地域であるモグーリスタン・ハン国、ジョチ・ウルス、トゥグルク朝、マムルーク朝、オスマン帝国をも宗主権下に置いた[1]。しかし、彼が明遠征の途上で没すると、後継者を巡って国家は内乱状態に陥った[1]。それを制したのはティムールの四男シャー・ルフ(在位:1409年 -1447年)で、彼は本拠地のヘラートを首都とし、サマルカンドを長子のウルグ・ベクに委ねて、ティムールの築いた帝国の大部分を支配下に治めた[1]。40年近い彼の治世はティムール朝を通じて最も安定した時代であったが、国の西北部や東北部でトゥルクマーンの黒羊朝(カラ・コユンル)やウズベクの活動が活発化した[1]。シャー・ルフ没後に生じた混乱を収めたのがアブー・サイード(在位:1451年 - 1469年)で、1451年にウズベクのアブル=ハイル・ハンの援助を得てサマルカンドを奪取すると、ナクシュバンディー教団の導師であるホージャ・アフラールを招聘し、その宗教的権威を恃んでマー・ワラー・アンナフルを掌握した[1]。1458年にはイラン東部地域を支配下に入れて国家を再統一した[1]。しかし、彼が黒羊朝に代わって強力となった白羊朝(アク・コユンル)と戦って敗死すると、ティムール朝はサマルカンドの政権とヘラートの政権とに分裂した[1]。そして前者は1500年に、後者は1507年にウズベクのムハンマド・シャイバーニー・ハンに征服された[1]。その後1526年にアブー・サイードの孫のバーブルがインドの地においてムガル帝国を建国してティムール朝を再興する[1]。
周辺地図
歴史
チャガタイ・ウルスの東西分裂
1346年、チャガタイ・ウルスのマー・ワラー・アンナフルを中心とした西半分の地域において、有力アミールのカザガンが諸部族を率いて反乱を起こした[4]。カザン・ハン(在位:1343年? - 1346年)はテルメズとカルシの間にある鉄門関の北方で勝利するが、カルシに冬営していた際にカザガンの急襲を受けて戦死した[4]。その後、カザガンはチャガタイ・ウルスの実権を握るが、1358年の狩りの最中に暗殺された[4][注釈 1]。一方で東側のモグーリスタンでは1347/1348年にトゥグルク・ティムールがハンに即位したため、チャガタイ・ウルスは東西に分裂した[4]。トゥグルク・ティムールはカザガンが暗殺されて混乱していたマー・ワラー・アンナフルに1360年と1361年の二度にわたって侵攻し、久方ぶりにチャガタイ・ウルスを再統一した[4]。
ティムールの登場
ティムールは1336年、ケシュ近郊のホージャ・イルガール村で生まれた[4]。父親のタラガイはチンギス・カンがチャガタイに与えた四個の千人隊(トゥメン)のひとつであるバルラス部の名門に属していたが、すでに有力者としての地位を失ってわずかな従者を従えるだけになっていた[5]。ティムールは青年時代に持ち前の指揮官としての才能を発揮して、次第に部下の数を増やしていき、1360年のトゥグルク・ティムールのマー・ワラー・アンナフル侵攻の際にいち早く彼に帰順して父祖の所領であったケシュ周辺の地を安堵された[5]。翌年にはトゥグルク・ティムールよりバルラス部の指揮権を委ねられた[5]。
ティムールとフサイン
ティムールはやがてカザガンの孫でカラウナス部を率いていたアミール・フサインと行動を共にするようになる[5]。1365年、彼らはモグール(モグーリスタン・ハン国)軍との戦いに大敗して、アム川の南に逃亡した[5]。モグール軍は進軍してサマルカンドに迫ったが、住民たちが都市の防衛に立ち上がり、モグールらを撃退してしまった[5]。モグールの襲来に対して立ち上がった自治組織はサルバダールといい、覇権を目指すフサインやティムールにとって都市住民のこうした自治組織は是認できる存在ではなかった[5]。そのため、フサインとティムールはサルバダールの自治を認めると偽って指導者たちをおびき出し、一網打尽に殺害した[5]。やがて両者は対立をするようになる[6]。フサイン側にスルドス部、ジャライル部などの有力部族がついたため、ティムールは劣勢のうちにフサインと和解した[6]。しかし、フサインが根拠地のバルフを要塞化しようとしたのを契機に、遊牧諸集団はフサインに反発し、こぞってティムール支持にまわった[6]。ティムールはバルフへ向けて進軍する途中、テルメズ付近でメッカ、メディナの寄進財産(ワクフ)拡張のために浄財を求めていたサイイド・バラカに会うと、多くを寄進して免税特権を与え、バラカより高貴な者のみが持つ太鼓と旗を授与された[6]。アム川を渡ったティムールはオゴデイ裔のソユルガトミシュ(在位:1370年 - 1388年)を西チャガタイ・ハン国のハンに擁立してバルフを包囲、フサインはメッカへの巡礼を条件に降伏した[6]。町の城塞は破壊され、フサインとその子らは殺害された[6]。
ティムール朝の成立
1370年、ティムールはカザン・ハンの娘でフサインの妻であったサライ・ムルク・ハヌムらを娶り、「ハン家の娘婿(アミール・キュレゲン)」の地位を得る[6]。そして遊牧集団のアミールや、地方領主、宗教的権威であるサイイド、チンギス裔の王子らの支持を得て新政権を樹立する[6]。
征服事業
1371年、ティムールは東トルキスタンに遠征してモグーリスタン・ハン国を服属させ、続けてホラズム地方に侵攻する[7]。ホラズム地方にはコンギラト部がスーフィー朝を建てて支配しており、ティムールは旧チャガタイ・ウルス領であった南部の返還を要求して出兵し、これを手に入れ、1373年には長男のジャハーンギールとスーフィー朝の王女との婚姻をとりまとめてホラズム全域を勢力下に入れた[7]。また、ジョチ・ウルスのトクタミシュが左翼の支配権をオロス・ハンと争って敗れたため、ティムールを頼ってきた[8]。ティムールは二度にわたって彼に軍勢を与え、シル川中流域へ送り出したが敗退したため、自ら出陣して1377年にオロス・ハンを破り、ジョチ・ウルスの左翼を統括するハンとしてトクタミシュを即位させた[8]。トクタミシュは一時オロスの子にハン位を奪われたが、ティムールの援助で返り咲き、1378年の春には首都サライを手に入れてジョチ・ウルス全土の支配権を手にした[8]。ティムールは1379年にスーフィー朝の首都ウルゲンチを攻略し、ホラズム全域を支配下におさめる[8]。こうして東と北の脅威を除き、続く西方遠征の足場をしっかりと固めた[9]。
続いてティムールは旧フレグ・ウルス領である西アジアの遠征に取り掛かった[9]。当時の西アジアではフレグ・ウルスの解体後、ジャライル朝、ムザッファル朝、クルト朝、サルバダール朝などが乱立していた[9]。1380年、ティムールはまずクルト朝へ向けて軍を送り、1382年にはクルト朝とサルバダール朝を直接支配下に入れてホラーサーン地方を手に入れた[10]。次いでアフガニスタンを攻める一方、1385年にジャライル朝の首都ソルターニーイェを制圧し、翌年からの三年戦役ではキリスト教国のグルジア王国からアナトリア東部へ進出した[10]。さらにイスファハーンを経てシーラーズへ入城し、ムザッファル朝を服属させた[10]。この間に、ジョチ・ウルスのトクタミシュ・ハンがティムール領に攻撃を加えたとの知らせが入ったため、ティムールは1388年にサマルカンドへ帰還し、しばらくジョチ・ウルスの対応に追われる[10]。3度にわたるキプチャク草原への遠征によってトクタミシュに勝利したティムールは、1392年から五年戦役に出征する[10]。まずムザッファル朝を滅ぼしてファールス地方の支配権を次男のウマル・シャイフに与え、バグダードへ向かった[10]。ジャライル朝の君主スルタン・アフマドが戦わずしてマムルーク朝に逃げたため、ティムールはバグダードに無血入城する[10]。マムルーク朝のバルクークは、ティムールからのアフマド引き渡し要求を拒否し、シリアに軍を進めると、ティムールが上イラクから北上した隙をついて、アフマドにバグダードを奪還させてカイロに帰った[11]。一方、ティムールはデルベントを越えてテレク河畔でトクタミシュを破ると、彼の息の根を止めるべく追撃して、ヴォルガ河畔からドン川沿いに北上し、ルーシ諸国に侵入したあと、方向を変えて黒海岸のアゾフに至り、ヴォルガ川をアストラハンから遡って首都サライを破壊した[11]。この地で冬営したティムールは翌年春にデルベントを越えてイラン経由でサマルカンドに帰還した[11]。こうして1396年までにティムールは西方遠征の目的をほぼ達成した[11]。
1397年、ティムールはサマルカンドの東郊にあらたな庭園「よろこびの園」と宮殿の建設を命じた[11]。これはモグーリスタンの支配者ヒズル・ホージャ・ハンの娘を妻に迎えるための準備であった[11]。シル川まで出迎えたティムールは遊牧民の信奉を集めていた聖者アフマド・ヤサヴィーの廟を大々的に修復し、11月にイスラーム法に則ってシル河畔で挙式した[11]。そして、明朝の使節に謁見を許して帰国させた後、モグーリスタン辺境に要塞を築き、耕作地を増やして穀物の増産に努めるよう命令した[11]。ティムールは明朝への遠征を考えていたが、実行されなかった[12]。
1398年春、インド遠征に派遣していた孫のピール・ムハンマドがムルタンで苦戦していることを知り、ティムールは予定を変更して急遽インドへ出立した[12]。ティムール軍はカーブルからパンジャブ地方を通り、その年の暮れにトゥグルク朝の首都デリーに侵攻して占領した[12]。デリーでは重税が徴収され、ティムール軍兵士による略奪がおこなわれ、多くの住民が捕虜となった[12]。翌年(1399年)、ティムールは多くの戦利品とともにデリーを出発してサマルカンドに帰還した[12]。同じ年、アーザルバーイジャーン方面を統括する三男のミーラーン・シャーが錯乱したため、ティムールはミーラーン・シャーの側近を処刑し、グルジアを襲撃、1400年にはアナトリア東部からシリアへ進撃してアレッポを占領、翌年(1401年)にはダマスカスへ入城した[12]。この時、ダマスカスに滞在していたイブン・ハルドゥーンはティムールと会見し、彼を知恵者で極めて明敏な人物と評している[12]。ティムールはここからモースルを経てバグダードを占領し、翌1402年には東アナトリアに勢力を拡大するオスマン朝のスルタン・バヤズィトをアンカラの戦いで破った[13]。オスマン朝祖宗の地ブルサへ軍を派遣し、自らはイズミルまで進んで聖ヨハネ騎士団の要塞を攻略したが、ティムールにはアナトリアを直接統治する意思はなかった[13]。オスマン朝は一時君主不在の時代を迎え、そのアジア側の領土はオスマン朝に所領を奪われた旧領土に委ねられた[13]。1404年夏にティムールはサマルカンドへ帰還した[13]。この間ティムールは孫のハリール・スルタンを明遠征準備のため帰還させ、1403年にアーザルバーイジャーンのカラ・バーグで中央アジア、アフガニスタン、イラン、イラクに及ぶ帝国の諸地域を一族に分封した[13]。マムルーク朝も名目的にティムールに従ったため、ティムール朝の支配領域は旧モンゴル帝国の西方3ハン国の版図を越えて西方はエジプト、アナトリア西端にまで至った[13]。
1404年11月、ティムールは明朝を目指して20万の大軍を率いてサマルカンドを出発した[13]。しかし1405年2月、キジル砂漠を横断してオトラルに至ったときにティムールは病没してしまう[14]。
シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代
ティムールが没した時、各地に分封された王族は一斉に君主候補者として名乗りを上げた[15]。ティムールは生前、長男ジャハーンギールの子ピール・ムハンマドを後継者に指名していたが、その遺言は実現しなかった[15]。なぜなら、まず最初に大軍と共にタシュケントに駐留していたハリール・スルタン(在位:1405年 - 1409年)がサマルカンドに入城し、政権を握ったからである[15][注釈 2]。ハリール・スルタンはチンギス裔でもないティムールの曾孫のムハンマド・ジャハーンギールをハンに即位させ、ムハンマド・ジャハーンギールの名前で勅令を発布する一方で貨幣やフトバに自身の名前を入れた[16]。
1409年、ハリール・スルタンを打倒して政権を握ったのはシャー・ルフ(在位:1409年 - 1447年)であった[15]。ティムールが没した時、彼の統治下にあったホラーサーンでは、ティムールの腹心や地方領主の反乱が続発した[17]。これらを鎮圧する一方、彼は麾下のアミールたちに領地の賜与(ソユルガル)をおこなって、その忠誠心をつなぎ留めねばならなかった[17]。シャー・ルフはサマルカンドを占領すると、その統治を長男のウルグ・ベクに委ね、ティムールの寵臣であったシャー・マリクを後見役に任じてヘラートへ戻った[17]。自らの本拠地であったヘラートを首都としたシャー・ルフはティムール朝の再統一を目指し、3人の兄弟の家系から実権を奪って自らの一族に権力を集中させていった[17]。彼はティムール政権を支えた譜代の有力者に代わって、ティムール家と同じバルラス部を除けば、寵妃ガウハル・シャードの実家であるタルハン部をはじめ、姻族や子飼いの臣下を重用して政権の基盤を固めた[17]。対外的には明朝との外交関係を修復して使節の交換をおこない、商業活動や農業の振興をはかって文芸を保護したため、その宮廷では顕著な文化的発展がみられた[17]。40年近いシャー・ルフの治世はティムール朝でもっとも安定した時代であった[17]。しかし、イラン西北部からイラクではトルクメンの活動が活発化し、カラ・ユースフに率いられた黒羊朝(カラ・コユンル)が強勢となった[17]。シャー・ルフによる三回の遠征の甲斐もなく、アーザルバーイジャーンは黒羊朝に奪われてしまう[17]。1447年にシャー・ルフが没すると、一族の王子たちが各地で独立し、北方では遊牧民のウズベクやトルクメンの活動が活発化した[17]。サマルカンドの統治を委ねられていたウルグ・ベクは翌年ヘラートに入城して王位を継承したが、ウズベクの中央アジア侵入を聞いて、父の遺骸と共に本拠地のサマルカンドへ引き揚げた[18]。1449年、ウルグ・ベクは息子のアブドゥッラティーフに殺害された[18]。
アブー・サイードの治世
シャー・ルフ没後の混乱を収めたのはミーラーン・シャー家のアブー・サイード(在位:1451年 - 1469年)であった[18]。彼はトルクメンのアルグン部の軍事力を背景に台頭し、1451年にウズベクのアブル=ハイル・ハンの援助を得てサマルカンドを奪取した[18]。そして、タシュケントからナクシュバンディー教団の指導者であるホージャ・アフラールを招聘し、その宗教的権威を恃んでマー・ワラー・アンナフルを掌握した[18]。1457年にはホラーサーン情勢の混乱に乗じて出兵したが、ヘラートを占領できず、翌年(1458年)、黒羊朝のジャハーン・シャーがヘラートへ入城した[18]。しかし、アーザルバーイジャーンで生じた反乱のために、ジャハーン・シャーは占領地をアブー・サイードに引き渡して本国へ帰還せざるを得なかった[18]。アブー・サイードはホラーサーンほかイラン東部地域を支配下に入れ、シャー・ルフ以来となる帝国の再統一を成し遂げた[18]。アブー・サイードは黒羊朝とは友好関係を保ったものの、国の東北方面ではウズベクやモグールの侵入、ウルグ・ベクの孫ムハンマド・ジューキーの反乱に悩まされた[18]。彼は領内にいたモグールのユーヌスをモグーリスタンのハンとして送り込んで東方の安定を図る一方、1467年に白羊朝(アク・コユンル)がジャハーン・シャーを倒して台頭すると、旧領土の奪回を目指して出撃した[18]。しかし、1469年に白羊朝のウズン・ハサンのために敗れて殺害された[19]。
サマルカンド政権とヘラート政権
アブー・サイードの後を継いだのは長男のスルタン・アフマド(在位:1469年 - 1494年)であるが、サマルカンドではアブー・サイードの時から大きな影響を持っていたホージャ・アフラールが政治的・宗教的に絶大な力をふるうようになっており、彼には多くの寄進財産(ワクフ)が委ねられたほか、中央アジア各地に莫大な不動産と商業資本を保有して、経済的にもマー・ワラー・アンナフル随一の実力を有していた[19]。スルタン・アフマドの25年に及ぶ治世では、ほとんどのことがらがホージャ・アフラールのおかげで公正に法に則って解決され、サマルカンドの人々は「平安にのんびりと」日を過ごしたという[19]。
1494年にアフマドが没し、後を継いだ弟のマフムードは即位後半年も経たずして没した[19]。その後6年の間に3人の王子が5回王位に就くという内訌が生じた[19]。この背景には国家の軍事・行政を支えていた有力アミールのうち、名門のバルラス部とアルグン部との対立があった[19]。また、ホージャ・アフラールの2人の息子も互いに反対派にまわって抗争に加わり、モグールとウズベクの勢力が干渉してサマルカンド政権を崩壊へと導いた[19]。一方、ヘラート政権は1470年にヘラートの奪還したスルタン・フサイン(フサイン・バイカラ)によって打ち建てられ、彼は40年近くホラーサーンを支配し、アム川をはさんで北のサマルカンド政権とも、西方の白羊朝とも友好的な関係を保った[20]。この平和の時代、優れた教養人であったフサインや宰相のミール・アリー・シール・ナヴァーイーなどの文芸保護活動によって、ヘラートの宮廷を中心にティムール帝国時代随一の文化が花開いた[20]。しかし、1500年にサマルカンドを征服したウズベクのムハンマド・シャイバーニー・ハンに対して、フサイン没後のヘラート政権は何ら有効な軍事行動をとることができないまま、その軍門に下った[20]。
1511年、バーブルはイランの新興王朝サファヴィー朝の支援を受けて再びサマルカンドを奪還するが、サファヴィー朝の援助を受けるためにシーア派に改宗していたために住民の支持を失い、1512年に再びサマルカンドを失った。バーブルはこれ以降、中央アジアの支配奪還を断念し、南下に転じる。アフガニスタンのカーブルを本拠地としていたバーブルが、デリーのローディー朝を破り、インドにおけるティムール朝としてムガル帝国を打ち立てるのは、その晩年の1526年のことである。
国制
ティムール朝の国制については不明なところが多く、現実にティムール以下歴代の君主の多くが確固たる行政上の制度を定めたこともなかったと考えられる。特にティムールの時代には、ティムールの息子たち、腹心の部下たち、彼らに従う遊牧民たちが分封されてカリスマ的な軍事指導者であるティムールの権威に服していたため、ティムールの没後には容易に分裂に向かってしまうものであった。15世紀末にヘラートに首府を置いたフサイン・バイカラは軍務と財務を司る官庁と宗教を統括する「サドル」職を設置した。フサインはティムールと同じく皇子たちを各地に分封して、そこにもヘラートと同様の行政機関が設けられて自治が布かれた。中央の統制が及ばないため、1人の皇子が処刑されると他の皇子の反乱が連鎖し、シャイバーニー朝への対応に後れをとった[21]。
ティムールは生涯を通じて確固とした行政システムを構築しなかったと考えられるが、その後継者たちの時代についても不明な点が多い[20]。まず、君主の傍らにあって勅書の発行を司っていたのがパルヴァーナチで、玉璽を管理し捺印を担当したムフルダールおよび勅書作成の実務にあたったムンシーとともに、軍務庁・財務庁で遂行される文書行政の中枢に位置した[20]。そのほか側近の中には君主の警護を担当する親衛隊長、日々の食事や酒宴、鷹狩りや幕営にかかわる官職などが含まれていた[20]。国政の柱となっていた軍務庁と財務庁はそれぞれ数名のアミールによって統括されていた[20]。アミールたちの最上位に位置付けられていたのが、アミール・アル=ウマラ―(アミールの中のアミール)であった[22]。久保一之によれば、ティムール帝国期にアミールという語は、遊牧貴族の身分を示す称号としてだけでなく、官職・地位をあらわすこともあったという[22]。軍務庁は軍隊の召集・監督をはじめとする軍務を司り、「ヤサの民」と表現されるテュルク・モンゴル的慣習法の規範のなかで生活する軍人たちを管轄していた[22]。実務は書記(バフシ)と軍隊監督官(トヴァチ)が担っていた[22]。財務庁は徴税・財務を扱い、都市と農村の発展に努めて納税者である住民の保護をおこなった[22]。実務はタジク系のワズィールが担っていた[22]。彼らは中・下級官吏任用権を持ち、事実上財務庁を運営していた[22]。彼らの最有力者がディーワーン監督者として、ワズィールらを統括した[22]。軍務庁と財務庁はそれぞれテュルク・モンゴル系遊牧社会とタジク系定住民社会に対応していた[22]。両官庁とは別にイスラーム社会の宗務長官の役割を担っていたのがサドルであった[23]。サドルの職掌はサイイド(預言者ムハンマドの子孫)やウラマー層の統括と、ワクフ運営の監督であった[23]。サドルはカーディー(法官)や、ムフタスィブ(違法行為取締官・市場監督官)などシャリーア(イスラーム法)に関する諸官職者の人事権を握り、サイイドやウラマー、ワクフ関係者に対して絶大な影響力を持った[23]。ティムール帝国では、サドルを政権内の行政官と位置付けることによって支配下にあったムスリムすなわちタジク系定住民社会の掌握が意図されていたのである[23]。
ハン制度
ティムール朝ではティムールの王朝開始以前から存在する名目上のチャガタイ・ハン(西チャガタイ・ハン)を継続して置いており、それはクリルタイを開催してハンを選定した[24]。ティムールが最初に即位させたハンはソユルガトミシュ(在位:1370年 - 1388)であるが、ティムールは最初ハンを置こうとしなかったが、アミールたちの強い要求によってハンを置くようになり、自身の監視下に置いた[25]。1388年にソユルガトミシュが病死すると、ティムールはその息子スルターン・マフムード(在位:1388年 - 1402年)を即位させた[26]。この時の理由が以下のように記されている[26]。
(ティムールはノヤン・アミールたちや重臣と)国事の処理と現状の善処についての熟慮の末に次の一点で一致した。国には帝王(pādshāh)が不可欠である。なぜなら兵士(lashkar)にとっての帝王は、体にとっての首のようなものである。首なしの体が役に立たないように帝王なしの臣下はあまりいない。 — ニザームッディーン・シャーミー『ザファル・ナーマ(勝利の書)』
ティムールはムスリム統治者たちの臣従を誘うためにハンの名前で勅令を発布し、その時のハンを「イスラームの帝王」と称した[27]。ハンは名目的・傀儡的存在であったが、兵士を動員し、軍事行動を起こすにはハンの発布した勅令は不可欠であり、時にはハン自らが戦場で指揮官として従軍し、敵と戦うことが求められた[27]。普段、ティムールはハンをサマルカンドの壁で囲まれた「ハン屋敷(Ḥiyāṭ-i khān)」と呼ばれる地区に軟禁して監視した[27]。
ティムールの死後も継続してハンが置かれ、銀貨にもその名が刻まれた[28]。しかし、ウルグ・ベクがサトゥク・ハンを廃位したあとの2代のハンは名前が残っておらず、貨幣にも刻まれなくなり、形式的な権威・権力さえも失われていった[29]。そんな中、アブー・サイードの時に即位したユーヌス・ハンを最後にハン制度を廃止することとなった[29]。その経緯について以下のように記されている[30]。
アミール・ティムールの後、ミールザー・ウルグ・ベクの時代まで、この件(ハンを置くこと)は遵守された。しかし、ハン位については、名前のほかにそれ以上何もなかった。ついにハン自身は大部分サマルカンドで拘束されるようになっていた。いまや帝位(pādshāhī)の順番が私に達したので、私(アブー・サイード)の独立権力(istiqlāl)は、私がハンを必要としないまでになっている。いまや、私はあなた(ユーヌス)の粗衣を脱がせ、帝王にふさわしい賜服を着せ、あなたの本来の牧地に送り返そう。以下のことが約束・条件とされる。すなわち、今後はアミール・ティムールとアミール・ティムールの一門(dūdmān)は我々のノケル(nawkar)であると主張していた過去の祖先とハンたちとは異なり、子々孫々、このように主張してはならない。なぜなら、たとえ昔はそうであったとしても、そうでなくなり、いまは私が私の一存で帝王である。他方(モグール・ウルスのハン)が私のノケルであると主張するなら、いまや、あなたは従僕と主人(khādim wa makhdūm)の名を帯び、友人の名を棄て、以前のハンたちのようにティムール家一門のミールザーたち(mīrzāyān-i Tīmūrī-nizhād)に書くのではなく、友好的な書き方を遵守しなければならない。こうして、今後を受け入れた。この約束に従って彼らは諸条件を厳粛な誓いで確認した。(アブー・サイードはユーヌス・)ハンに(モグーリスタンへの帰還の)許しを与えた。
— ムハンマド・ハイダル『タリーヘ・ラシーディー』
この取り決めによってアブー・サイードはハン制度の廃止を決定し、それまでモグールのハンたちがティムール朝君主を自身のノケル(従者)と主張してきたが、逆にモグールのハンがティムール朝君主のノケルになったことを認めさせた[31]。
文化
ティムール朝では豊かな経済力と教養人であった歴代王族の保護によってイラン文化の伝統を受け継ぐ高度な文化が開花した[32]。ティムール朝文化が極めて高い水準に達したことは、建築・造園・ミニアチュール・書道・製本技術・文学・天文学などの分野にわたって現在残されている見事な建築や作品から見てとることができる[32]。ティムール朝崩壊後、多くの文化人がイランのサファヴィー朝、インドのムガル帝国、中央アジアのシャイバーニー朝などの宮廷に召し抱えられ、ティムール朝文化を伝えていった[32]。独立後のウズベキスタンではティムールやウルグ・ベク、ナヴァーイーやバーブルを記念する国際学会など、ティムール朝に関わる国威発揚の行事がしばしば行われている[32]。
建築
現存する建物としては
- ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟(カザフスタン・テュルキスタン市)
- ビービー・ハーヌム・モスク(ウズベキスタン・サマルカンド)
- グーリ・アミール廟(ウズベキスタン・サマルカンド)
- アクサライ廟(ウズベキスタン・サマルカンド)
- アクサライ宮殿(ウズベキスタン・シャフリサブス)
- ザンギアタ廟(ウズベキスタン・タシュケント)
- ウルグ・ベク・マドラサ(ウズベキスタン・サマルカンド)
- ウルグ・ベク・マドラサ (ブハラ)(ウズベキスタン・ブハラ)
- ウルグ・ベク天文台(ウズベキスタン・サマルカンド)
- シャーヒ・ズィンダ廟群(ウズベキスタン・サマルカンド)
ヘラートにはシャー・ルフ妃ガウハル・シャードの廟が残っているが、シャー・ルフとフサイン・バイカラ時代の建築物の多くは1885年にイギリス軍の砲撃によって破壊された[32]。サマルカンドのウルグ・ベク天文台は地下の部分が現存しており、そこでの観測をもとに彼はアリー・クシュチらと『ウルグ・ベク天文表』を完成させた[32]。
書道・画家
質の高い写本が制作され、フサイン時代のヘラートでは書家のスルタン・アリー・マシュハディー、画家のビフザードらが活躍した[32]。
文学
ペルシア語詩人ジャーミー、チャガタイ語文学のアリーシール・ナヴァーイーやバーブルの名を挙げることができる[32]。
ペルシア語文学
- ハーフィズ・アブルー — 『地理書』『諸史の集成』など。歴史・地理著作。
- ニザームッディーン・シャーミー — 『ザファル・ナーマ』。ティムールの公式伝記的歴史書。
- シャラフッディーン・アリー・ヤズディー — 『ザファル・ナーマ』。ティムール伝の代表作。
- アブドゥッラッザーク・サマルカンディー — 『マトラアッサアダイン・ワ・マジュマアッバフライン』。
- ジャーミー — 『ハフト・アウラン』『ユースフとズライハー』など。ティムール朝後期を代表する詩人。
チャガタイ・テュルク語文学
- アリー・シール・ナヴァーイー — 『五部作(ハムサ)』『ムハーカマト・アル=ルガタイン』など。
- フサイン・バイカラ — 自身も詩作を行い、文学者・芸術家を保護。
- バーブル — 『バーブル・ナーマ』。ティムール朝の王族によるチャガタイ語散文の傑作。
歴史書
| 著者 | 署名 | 成立時期 | 内容 |
|---|---|---|---|
| ニザームッディーン・シャーミー | 『ザファル・ナーマ』(勝利の書) | 1404年頃 | ティムールの伝記・征服史 |
| ギヤースッディーン・アリー・ヤズディー | 『インド征討記』 | 1400年代初頭 | ティムールのインド遠征 |
| 著者不明 | 『イスカンダル無名氏の史書』 | 1414年前半 | 歴史書 |
| 著者不明 | 『ムイーン史選』 | 1414年10月 | ティムール時代の年代記 |
| ハーフィズ・アブルー | 『ザイル・イ・ザファル・ナーマ』 | 1412年 | シャーミー『ザファル・ナーマ』の続編 |
| ハーフィズ・アブルー | 『ターリーフ・イ・シャーフルフ』 | 15世紀前半 | シャーフルフ治世史 |
| ハーフィズ・アブルー | 『マジュマア・アッタワーリーフ』 | 1420年代 | 世界史・ティムール朝史 |
| ハーフィズ・アブルー | 『ズブダト・アッタワーリーフ』 | 1420年代 | 世界史・王朝史 |
| シャラフッディーン・アリー・ヤズディー | 『ザファル・ナーマ』(勝利の書) | 1420年代 | ティムールの本格的な征服史 |
| アブドゥッラッザーク・サマルカンディー | 『マトラアッサアダイン』 | 15世紀後半 | ティムール朝を中心に、14世紀から15世紀にかけての中央アジアやイラン、インドなどの政治・社会・文化を伝える貴重な史料 |
| ミールホーンド | 『ロウザト・アッサファー』(清浄の園) | 15世紀末 | 世界史。ティムール朝史を含む |
| ホーンドミール | 『ハビーブ・アッシヤル』 | 16世紀初頭 | 世界史。ティムール朝末期まで記述 |
構成部族
ティムール帝国ではモンゴル帝国時代以来の部族やその後新たに形成された部族など、多様な来歴を持った多くの有力部族が消長し、帝国の趨勢に多大な影響を及ぼした[33]。有力部族の出身者からはアミールとして帝国の軍事・行政の要職を占める者も数多く現れた[33]。
| 名前 | 備考 |
|---|---|
| オイラト(Ūyrāt)部族 | アルグン・アカの一族で、ムハンマド・スルターン・シャー(Muḥammad Sulṭān Shāh)の時にティムールに仕えた。 |
| コンキラト(Qunqirāt)部族 | ジョチ・ウルスのウズベク・ハンの娘婿で、スーフィー朝を創始したアク・スーフィーの一族で、1388年にティムールに征服された。 |
| オルナウト・ケレングト(Ūrnāwt Kilingūt)部族(タルハン部族) | チンギス・カンの時代にダルハンに任命されたバダイとキシリクの一族で、そのためタルハン部族とも呼ばれる。ティムール朝ではギヤースッディーンの時に頭角を現し、シャー・ルフ政権において軍事・行政の要職を占めて栄華を誇った。 |
| スルドゥス(Sūldūs)部族 | |
| バルラス(Barūlās)部族 | ティムール朝の帝室を輩出した部族。各地のアミール職も占めていた。 |
| ドゥクラト(Dūqlāt)部族 | ティムールに仕えたアミール・バラート・ホージャ(Barāt Khwāja)や、アミール・シャムスッディーン(Shams al-Dīn)は娘を嫁がせて高位のアミールとなった。 |
| ベスト(Bisūt)部族 | ダル・スルターン・アカ(Dar Sulṭān)はミーラーン・シャーの子アミールザーデ・アバー・バクルのハトゥンとなった。 |
| エルチギデイ(Īlchīkidāy)部族 | もとは一つの千人隊(トゥメン)であり、チャガタイ・ハンのイルジギデイの子孫である。ティムールに仕えたアミール・アクブカ(Aqbūqā)をはじめ、高位のアミールを歴任した。 |
| ヤサウリー(Yasāwri)部族 | チャガタイ・ウルスのヤサウルの子孫と考えられる。マフムードシャーの時にティムールに仕えた。 |
歴代君主
| 代数 | 名前 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | ティムール | 1370年 - 1405年 | アミール・タラガイの子。ティムール朝を創始。 |
| 2 | ハリール・スルタン | 1405年 - 1409年 | ティムールの三男ミーラーン・シャーの子。 |
| 3 | シャー・ルフ | 1409年 -1447年 | ティムールの四男。 |
| 4 | ウルグ・ベク | 1447年 - 1449年 | シャー・ルフの長男。 |
| 5 | アブドゥッラティーフ | 1449年 - 1450年 | ウルグ・ベクの子。 |
| 6 | アブドゥッラー | 1450年 - 1451年 | シャー・ルフの子イブラーヒーム・ミズラの子。 |
| 7 | アブー・サイード | 1451年 - 1469年 | ミーラーン・シャーの孫。 |
サマルカンド政権
| 代数 | 名前 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | スルタン・アフマド | 1469年 - 1494年 | アブー・サイードの長男 |
| 2 | スルタン・マフムード | 1494年 - 1495年 | アブー・サイードの次男 |
| 3 | バイスングル | 1495年 -1496年 | スルタン・マフムードの長男 |
| 4 | スルタン・アリー | 1496年 | スルタン・マフムードの次男 |
| 5 | バイスングル | 1497年 | 復位 |
| 6 | バーブル | 1497年 - 1498年 | 後のムガル帝国初代皇帝 |
| 7 | スルタン・アリー | 1498年 - 1500年 | 復位 |
ヘラート政権
| 代数 | 名前 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | フサイン・バイカラ | 1470年 - 1506年 | ティムールの玄孫 |
| 2 | バディー・ウッザマーン | 1506年 - 1507年 | 共同統治 |
| 2 | ムザッファル・フサイン | 1506年 - 1507年 | 共同統治 |
系図
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ティムール1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ジャハーンギール |
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ウマル・シャイフ |
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ミーラーン・シャー |
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シャー・ルフ3 |
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ムハンマド・スルタン |
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ピール・ムハンマド |
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バイカラ |
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ハリール・スルタン2 |
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スルタン・ムハンマド |
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ウルグ・ベク4 |
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イブラーヒーム |
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ムハンマド・ジャハーンギール |
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マンスール |
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アブー・サイード7 |
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アブドゥッラティーフ5 |
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アブドゥッラー6 |
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フサイン・バイカラ8 |
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スルタン・アフマド |
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スルタン・マフムード |
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ウルグ・ベク |
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ウマル・シャイフ |
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バディー・ウッザマーン |
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ムザッファル・フサイン |
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バイスングル |
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スルタン・アリー |
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バーブル |
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ムガル帝国 |
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脚注
注釈
- ↑ ロシアの東洋学者ワシーリィ・バルトリドはこれ以降を「アミール国の時代」と名付けて、ハン権力の後退と遊牧諸勢力の台頭を指摘している[4]。
- ↑ ティムールとその時代の政治史を研究するマンツによれば、彼の軍はティムールが征服した諸地域からマー・ワラー・アンナフルへ移動させた混成部隊で、忠誠心を欠いていたため、ハリールは彼らの歓心を買おうとしてサマルカンドの富を使い果たしてしまったという[15]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 小松 2005, p. 362.
- ↑ 『ティムール朝』 - コトバンク
- ↑ 加藤 1999, p. 280.
- 1 2 3 4 5 6 7 小松 2000, p. 211.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 小松 2000, p. 212.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 小松 2000, p. 213.
- 1 2 小松 2000, p. 214.
- 1 2 3 4 小松 2000, p. 215.
- 1 2 3 小松 2000, p. 216.
- 1 2 3 4 5 6 7 小松 2000, p. 217.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 小松 2000, p. 218.
- 1 2 3 4 5 6 7 小松 2000, p. 219.
- 1 2 3 4 5 6 7 小松 2000, p. 220.
- ↑ 小松 2000, p. 221.
- 1 2 3 4 5 小松 2000, p. 223.
- ↑ 川口 2014, pp. 182, 184.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 小松 2000, p. 224.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 小松 2000, p. 225.
- 1 2 3 4 5 6 7 小松 2000, p. 226.
- 1 2 3 4 5 6 7 小松 2000, p. 227.
- ↑ 久保・竺沙・間野 1999, pp. 148–149.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 小松 2000, p. 228.
- 1 2 3 4 小松 2000, p. 229.
- ↑ 川口 2007, p. 20.
- ↑ 川口 2007, p. 21.
- 1 2 川口 2007, p. 22.
- 1 2 3 川口 2007, p. 23.
- ↑ 川口 2007, p. 25.
- 1 2 川口 2007, p. 26.
- ↑ 川口 2007, pp. 26–27.
- ↑ 川口 2007, pp. 27–28.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 小松 2005, p. 363.
- 1 2 川口 2007, p. 218.
- ↑ 川口 2007, pp. 218–235.
参考資料
- 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』北海道大学図書刊行会、1999年3月10日。ISBN 978-4832960312。
- 久保一之 著「ティムール帝国」、竺沙雅章、間野英二 編『中央アジア史』同朋舎〈アジアの歴史と文化8〉、1999年4月。 ISBN 978-4810408614。
- 小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社〈世界各国史4〉、2000年10月30日。 ISBN 978-4634413405。
- 編:小松 久男『中央ユ-ラシアを知る事典』平凡社、2005年4月1日。 ISBN 978-4582126365。
- 川口琢司『ティムール帝国支配層の研究』北海道大学図書刊行会、2007年4月25日。 ISBN 978-4832966765。
- 川口琢司『ティムール帝国』講談社〈講談社選書メチエ〉、2014年3月11日。 ISBN 978-4062585736。
関連文献
- 久保一之『ティムール 草原とオアシスの覇者』山川出版社〈世界史リブレット 人〉、2014年。
関連項目
ティムール朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 04:01 UTC 版)
1392年、ヤズドはティムール朝の支配下に入る。このころヤズドは繁栄の頂点に達した。1396年、新城壁が完成、さらに堀が加えられている。1427年、シャー・ルフに任じられた太守アミール・ジャラール・アッディーン・チャフマークは約20年にわたってヤズドを治め、新金曜モスク(英語版)およびハーンカー、ハンマーム、バーザールなどからなる複合施設(アミール・チャフマーク・タキーイェ)を建設、これに刺激されその他の建築も相次ぎ、工房なども作られた。
※この「ティムール朝」の解説は、「ヤズド州」の解説の一部です。
「ティムール朝」を含む「ヤズド州」の記事については、「ヤズド州」の概要を参照ください。
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