トルキスタン【Turkestan】
トルキスタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/02 14:40 UTC 版)

トルキスタンの面積は、インド亜大陸よりも広い

トルキスタン(Turkestan / Turkistan)は、今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な名称。
「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、欧州諸語などで用いられている[1]。トルケスタン、トゥルケスタン[2]、トゥルケスターン[3][4] とも言う。[5]。
領域
トルキスタンは、西はカスピ海、東は中国、北はアラル海、イルティシュ分水界、南はアフガニスタン北部、イラン国境に及ぶ地域 (ロシア・トゥルケスターンあるいは西トルキスタン、今日のトルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキスタン)、中華人民共和国の西北部の新疆ウイグル自治区 (シナ・トゥルケスターンあるいは東トゥルケスターン)、およびアフガニスタン北部の三地域に大別される[4]。
西トルケスタン、東トルケスタン、南トルケスタンとすることもある[6]。
歴史
「トルキスタン」とは、「テュルク人の」 (Turki)[3] という単語に「〜が存在する(ところ)」 「国」(-stān)[3][7] を意味する接尾辞が付属したペルシア語での他称に由来するものである。
前近代においてはその地域的な範囲は明確ではなく、イスラーム時代以降はマー・ワラー・アンナフルと呼ばれた中央アジア南部のオアシス都市の地域の北方に広がるテュルク系遊牧勢力がいた領域を指す漠然としたものであった[1]。
一方、スィル川の中流にはヤサヴィー教団の始祖アフマド・ヤサヴィーの廟墓があることで有名なトルキスタン市(古名ヤス)がある。
西トルキスタンは変わらずマー・ワラー・アンナフルと呼ばれていた。これはティムール朝末期のバーブルの時代でも同じであった。13世紀以降はモンゴル帝国、次いで後継の汗国に支配される。
19世紀後半、ロシア帝国がタシュケントにトルキスタン総督府を置き、その域は東部で天山山脈西部とパミール高原、西部でカスピ海東岸、南部でイラン・アフガニスタン国境にまで拡大した[1]。ロシア領トルキスタン (西トルキスタン)という名称と実態が成立すると、その東方は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンとも呼称されるようになった[1]。
ソ連邦ではトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国消滅後、パン・テュルク主義を想起させるトルキスタンのかわりに、中央アジア (Средняя Азия)と呼称されるようになり、ロシア領トルキスタンや西トルキスタンという名称は用いられなくなったが、東トルキスタンという名称は使用されている[4]。
テュルク人とその国家
国名 | 人口 | 構成民族比率 | 面積 | 名目GDP[8] | 一人あたりGDP[8] | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
カザフスタン | 1817万人[9] | カ67%、露21%、ウ3%[10] | 272万km2 | 1629億ドル | 8970ドル | |
キルギス | 614万人[11] | キ73%、ウ14%、露6%[10] | 20万km2 | 77億ドル | 1254ドル | |
トルクメニスタン | 576万人[11] | ト85%、ウ5%、露4%[12] | 43万km2 | 379億ドル | 6643ドル | |
ウズベキスタン | 3134万人[11] | ウ76%、露6%、タ5%、カ3%[13] | 44万km2 | 581億ドル | 1810ドル | |
タジキスタン | 893万人[14] | タ84%、ウ14%[10] | 14万km2 | 71億ドル | 801ドル | イラン系のタジク人が多数派 |
新疆ウイグル自治区 | 2360万人[15] | 維45%、漢41%、カ7%、回5%[10] | 165万km2 | 1453億ドル | 6137ドル | 中華人民共和国の自治区 |
参考(トルキスタン外) | ||||||
アフガニスタン | 2972万人[11] | パ45%、タ32%、ハ12%、ウ9%[16] | 65万km2 | 202億ドル | 570ドル | |
アゼルバイジャン | 990万人[14] | ア92%[17] | 9万km2 | 414億ドル | 4212ドル | |
トルコ | 8081万人[18] | 土90%、ク7%[19] | 78万km2 | 8526億ドル | 10551ドル |
非テュルク系(露=ロシア人、タ=タジク人、漢=漢民族、回=回族、域外:パ=パシュトゥーン人、ハ=ハザーラ人、ク=クルド人)
上表のように面積はカザフスタンが桁違いに広い。人口はウズベキスタン、次いでカザフスタンが多い。一人あたりの所得はタジキスタンが目立って低い。
近代以降
- 西トルキスタンは帝政ロシアの支配下となり、帝国がロシア革命で倒された後はトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国などが作られ、ソ連の傘下に組み込まれた。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。ソビエト連邦の崩壊とともに1991年に各共和国は悲願の独立を果たしたものの、これらの連合であるトルキスタン連邦の成立はそういう大国と隣接することをロシアと中国が恐れて介入し、実現しなかった。独立以降も経済的・軍事的には未だにロシアの影響は強い。今もなお中央アジア連合創設への提案は行われており、実現すると天然資源(特に鉱物類)の利権で強国となる。
- 東トルキスタンは清の乾隆帝に征服されて以来、清朝 → 中華民国 → 中華人民共和国と異民族による支配が続いている。1933年および1944年にソ連の後押しで東トルキスタン共和国を立てたが、いずれも短期間で消滅している。その後大量の漢民族が国策的に移民してきており、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている[20]。また、1950年代から1960年代にかけてはカザフの新疆脱出が発生した。さらに1964年のロプノール湖での実験を皮切りに、1960年代後半を通じて中国が核を保有して以降も、東トルキスタンの各地で核実験が執り行われ、現地の放射能汚染が懸念されている。現在は、独立運動各派は中国政府に非合法化され弾圧されている。そのため、東トルキスタン独立問題は米中間等で人権問題として問題視されてきた。なお、独立運動各派は、2004年9月に東トルキスタン亡命政府をアメリカで樹立している。
その他
- 「トルキスタン」は、ロシア帝国時代には、西トルキスタンの南部であるウズベキスタン・タジキスタン・トルクメニスタン一帯と、さらに狭い地域の名称として用いられたこともあった。
脚注
- ^ a b c d 小松久男「トルキスタン」『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月11日、ISBN 4-582-12636-7、388頁。
- ^ 『コンサイス外国地名辞典』<第3版>、三省堂、1998年4月20日、ISBN 4-385-15338-8、629頁。
- ^ a b c 牧英夫『世界地名ルーツ辞典』創拓社、1989年12月1日、ISBN 4-87138-076-9、308頁。
- ^ a b c 香山陽坪「トゥルケスターン」『世界地名大辞典 2』朝倉書店、昭和48年4月25日、0525-541502-0032、849~850頁。
- ^ 『外国地名レファレンス事典』日外アソシエーツ、2006年7月25日、ISBN 4-8169-1992-9、664頁。
- ^ 『グランド現代百科事典』学習研究社、1983年6月1日、ISBN 4-05-150097-7、78頁。
- ^ 蟻川明男『世界地名語源辞典』古今書院、1993年12月16日、ISBN 4-7722-1735-5、141頁。
- ^ a b IMF World Economic Outlook Database 2017年の値、ウイグルのみ en:List of Chinese administrative divisions by GDP 2016
- ^ 2018-02-01
- ^ a b c d 2016
- ^ a b c d 2017-01-01
- ^ 2003
- ^ 1996
- ^ a b 2018-01-01
- ^ 2015-03-06
- ^ 2005
- ^ 2009
- ^ 2017-12-31
- ^ 1965
- ^ 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト Archived 2014年12月23日, at the Wayback Machine.
関連項目
外部リンク
- トルキスタン情報ページへようこそ! - ウェイバックマシン(2009年9月30日アーカイブ分)
- 『トルキスタン』 - コトバンク
トルキスタン(中央アジア)
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「仏教美術」の記事における「トルキスタン(中央アジア)」の解説
「敦煌学」、「ホータン王国」、および「シルクロード」も参照 中央アジアは長い間、ペルシャ、中国、インド、それぞれの文化が出会う三叉路であった。紀元前2世紀ごろ、前漢による西域への影響力の拡大は、中国文明へ西アジアのヘレニズム国家、特にグレコ・バクトリア王国とのさらなる接触をもたらした。その後、仏教はガンダーラ地方からさらに北へと拡大し、トルキスタンまで到達した。交易路沿いの諸都市には少なくとも紀元前1世紀頃までには仏教が伝わっていた。しかし、この地における仏教美術が本格的に始まったのは、イラン系のクシャーナ朝の王、カニシカ1世による支配と、ガンダーラ美術の隆盛を経てからであった。 これらの動きは、タクラマカン砂漠の周縁に栄えたオアシス諸都市に、仏教徒のコミュニティ、さらには仏教王国の形成を促した。シルクロードの一部の都市は仏塔と寺院を完備していた。都市の住民達の狙いはおそらく、シルクロードの東西からの(仏教徒の)旅行者たちを歓迎し、彼らに必要なものを提供することであったと考えられる。 西トルキスタン(パミール高原以西、現在のカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン) 6世紀、玄奘がソグディアナを訪れた際には、この地に住んでいたソグド人は主にゾロアスター教を信仰していた。しかし、のちにソ連によって行われた発掘調査で、この時代ではまだ仏像や仏具が製作されていたことが判明している。8世紀に入ると、アッバース朝による征服によってこの地の仏教美術は絶えた。 良質な石材に乏しかった中央アジアでは、粘土は仏像制作にとって欠かすことのできない素材であった。 東トルキスタン (特に( タリム盆地、新疆ウイグル自治区 )) 以降千年ほど、エフタル、西突厥、唐、東突厥、ウイグルと支配勢力は目まぐるしく移り変りはしたが、仏教美術は周囲の文化や宗派の影響を受けながらも西域様式(西域美術とも)を展開させていき、10世紀、カラハン朝の時代に、この地で多数派であったウイグル人がイスラム教へと改宗するまで続いた。 ドイツの東洋学者で、アルベルト・グリュンヴェーデルの調査隊に随行したエルンスト・ヴァルトシュミット(英語版)によって提起された年代観に依れば、西域北道における仏教壁画美術、西域様式は、おおまかに三段階に分けられる。グプタ様式とガンダーラ美術後期の様式が入り混じった第1様式(500年頃)、第1様式の各要素が融合しつつ成熟していった第2様式(600年頃と600年から650年の間、それに650年以降の3段階)、漢民族の強い影響を受けた第3様式である。第2様式とそれ以前のスタイルの違いとして、第1様式と比べてより対比的な彩色とパターンの多用があるが、これは技術的な要因としてラピスラズリが新たに登場したことと、イラン的な要素が強まったことが原因であると考えられている。クチャのキジル石窟は西方からの影響が大きい第1様式と第2様式の壁画から成るのに対して、同じくクチャのクムトラ石窟では第3様式も見られる。 タジキスタン、アジナ・テパ遺跡の壁画 吐火羅王国 7世紀から8世紀 『大自在天』 尉遲乙僧、または尉遅跋質那か? ホータン、ダンダン・ウィリク出土 6世紀頃 大英博物館蔵 インドやペルシャからの影響が見て取ることができる。 キジル石窟、第14窟 賢い馬と王(ジャータカ, "Jataka of wise horse") キジル石窟、第224窟 仏舎利を抱えるバラモン、ドーナ(独楼那、徒盧那) 第2様式では目鼻が中央に寄せて描かれることが多い。 ベゼクリク千仏洞『誓願図』 9世紀 第3様式の例。人物の相貌や装束に唐の影響が強く表れている。 ベゼクリク千仏洞 第3様式では同形仏を繰り返し描くのが特徴。
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