影響力の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/26 02:09 UTC 版)
守護代として浦上則宗や宇野政秀に劣らぬ立場を得た則治ではあったが、急な台頭でありまだ在地への権力の浸透は不十分であった。そこで延徳2年(1490年)には相国寺正法庵の領地であった明石郡押部保三ケ村の代官職を正法庵に希望して正法庵もこれを了承し、いわゆる守護代請を行い、在地への影響力強化を計った。 明応元年(1492年)に新たな別所氏の本拠となる三木城を築き、衣笠城など既存の城を支城として在地の勢力を取り込んでいき、支配の地盤を固めた。また、稲屋氏・佐々氏などを郡代に起用し、郡代を通じて在地の間の裁判や寺領の諸役免除の命令などを行い、在地への権力浸透に努めている。 また、外交においても細川政元と結び、明応2年(1493年)には細川家臣の上原元秀と則治の尽力によって、政元の姉めし(後の洞松院)を還俗させ政則との政略結婚を実現した。明応5年(1496年)に主君政則が没した後は政則の遺志を反映して浦上則宗・赤松則貞・小寺則職・薬師寺貴能らと共に赤松七条家からの養子である道祖松丸(後の赤松義村)を家督に据えることの承認を幕府に求めている。
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