影響力の確立と変遷
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三木は1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙以降、党の要職や閣僚を歴任するようになり、選挙中にあまり徳島へ戻れなくなってしまった。同選挙の約一ヶ月前には三木の母、タカノが死去し、母の葬儀もそこそこに選挙戦に突入したが、妻の睦子が中心となって選挙区を回り当選する。 三木本人が徳島入りが出来なくなると、徳島県政に三木の影響力を強める必要性が増した。しかし1947年(昭和22年)の徳島県知事選(民選第1回)では、国民協同党の同僚同士であった三木と岡田勢一が別の候補を推薦して票が分裂、社会党の阿部五郎が知事に当選した。当時三木も岡田も国民協同党の幹部であり、三木はまだ岡田を抑えるだけの実力は無かったのである。続いて1951年(昭和26年)の選挙では、三木は社会党の蔭山茂人を社会党離党を条件に推薦した、しかし岡田は徳島市長原菊太郎を推薦、再び対立した。原は岡田や秋田大助という三木以外の衆議院議員との関係が深く、更に徳島県内の三木の有力支持者である長尾新九郎との関係も悪く、三木としても知事に推すことはできなかったのである。このときの知事選も票が分裂、自由党推薦の阿部邦一が当選した。結局昭和二十年代、三木は擁立した候補を知事にすることができず、徳島県政への影響力は十分なものとはならなかった。 1955年(昭和30年)の第3回選挙に向けての対応で、2期連続分裂選挙の不手際を犯した三木と岡田はともに自重していた。改進党徳島県支部の候補者選定では1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙で落選した秋田などが候補として挙がっていたが、1954年(昭和29年)4月、前回落選した原が再出馬を表明、改進党徳島県議団は原擁立に流れた。原と遠い三木与吉郎と三木武夫は秋田擁立に動いたが、秋田は自身と近い原との衝突に消極的で、更に県政への転出よりも国政復帰を目指していた。結局原が改進党の知事候補となって、現職の阿部を破った。三木にとっては秋田や岡田と親しい原の知事就任は不本意さの残るものであった。 4年後の1959年(昭和34年)の知事選は、現職の原が無投票で再選された。原は新産業都市の指定などで自民党の有力議員である三木の協力を必要とするようになり、三木にとっても徳島県政に対しての影響力強化のため原との関係強化を図っていた。そのため、1963年(昭和38年)の知事選を迎える頃には原と三木との関係は以前よりも密接なものになっていた。 同年4月の知事選では原が3選を果たしたものの、同年12月に脳出血で倒れ、後継者問題が浮上した。後継候補にまず挙げられたのは三木与吉郎参議院議員と武市一夫副知事であった。1964年(昭和39年)6月に原が公務に復帰したためいったん知事後継問題は沈静化したが、1965年(昭和40年)8月、知事辞職に至る。この間、三木与吉郎は第7回参議院議員通常選挙(1965年7月)で当選しており、知事候補から外れていた。そこで武市が知事後継者として有力となったが、武市は秋田の系列であったため、三木は知事に擁立するつもりはなかった。 三木の意中の人物は衆議院議員の武市恭信であった。武市恭信は貞光町の町長を務めた後、1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙と1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙に出馬するもいずれも落選、1961年(昭和36年)に三木が科学技術庁長官に任命された際に秘書官となった後、1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙に、三木から資金面と地盤の援助を受け、ようやく衆議院議員初当選を果たしていた。三木は徳島県議の約三分の一を自らの系列議員とし、続いて直系の知事を誕生させることによって県政支配を完成させようともくろみ、出馬に乗り気ではなかった武市恭信を強く説得、知事選出馬にこぎつける。一方の武市一夫は、武市恭信が自民党公認候補と決定した後も原が出馬を勧めたこともあり、出馬の検討を進めていたが、結局当選の見込みが立たないため出馬を断念した。 三木の強引ともいえる武市恭信の知事選擁立に対し、徳島県選出の他の国会議員は反対できなかった。かつて三木と対立した岡田は、1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙に落選して政界から引退していた。三木与吉郎はある程度の力を有していたものの三木の実力に及ばず、紅露みつは三木の直系であった。そして秋田大助、小笠公韶は当落を繰り返していて三木のライバルとはなり得ず、森下元晴は1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で当選したばかりであった。また衆議院議員にとって武市恭信の知事転向は選挙区のライバル減少に繋がり、とりわけ秋田は武市恭信と選挙区の地盤が重なるため、武市恭信の知事転出の利益は大きかったのである。選挙戦では三木武夫自らが選挙対策本部長に就任、現職の通産大臣でありながら徳島入りして武市恭信の応援を行う。10月5日の投票は武市恭信が当選を果たし三木直系の知事が誕生、三木の県政への影響力は全盛期を迎えた。
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