後継問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:20 UTC 版)
延宝2年(1674年)、福井藩主・光通が自殺した。後継者問題に対する外戚からの圧力に耐えかねたのが理由と言われている。光通は自殺する直前、「家督は昌親に譲るように」という遺言を残していたが、これが問題となり、家中を三分する家督争いが起こった。後継者候補として他に、そもそも光通には松平直堅という庶子がおり、また、光通・昌親より年上の兄(庶兄)である松平昌勝もいた。側室腹の庶子とは言えど、実子である直堅が本来は跡を継ぐはずであるが、この直堅の存在は、光通時代から主に外戚(光通の正室の実家である越後国高田藩)から問題視されており、また昌親の兄である昌勝も、長幼の順から言えば昌親よりも後継に相応しいと考えられた。光通があえて遺言したのには光通なりの思慮があったのだろうと思われるが、家中は「昌親」「直堅」「昌勝」の3派に分裂し、前藩主の息子である直堅を擁することを意図した藩士50人ほどは結託し、集団で江戸の直堅の元へ、または幕府への訴えにと向かった。一方、昌勝と昌勝を支持する藩士たちも藩主の座への野心を見せた。これらの動きに対して家老の芦田図書(依田康勝子孫)は、亡き光通の遺書を幕府に提出することで、昌親の家督相続の正当性を訴え、事態の収束を図った。幕府はこれを認め、5代藩主には昌親が就任することとなった。藩主不在となった吉江藩は廃藩となり、その所領は元の福井藩に併合された。この縁により、元の吉江藩領一帯はその後も各種税を免除された。また、福井藩主就任時に昌親(まさちか)と改名した。
※この「後継問題」の解説は、「松平昌親」の解説の一部です。
「後継問題」を含む「松平昌親」の記事については、「松平昌親」の概要を参照ください。
後継問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 15:06 UTC 版)
889年長子ウラディミールに位を譲り修道士となったが、彼の治下に異教の勢力が復活するのを問題視したボリスはウラディミールを廃し、三男であるシメオン1世に後を継がせた後に再び引退した。
※この「後継問題」の解説は、「ボリス1世」の解説の一部です。
「後継問題」を含む「ボリス1世」の記事については、「ボリス1世」の概要を参照ください。
- 後継問題のページへのリンク