藩主後継問題とは? わかりやすく解説

藩主後継問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/15 20:43 UTC 版)

三宅友信」の記事における「藩主後継問題」の解説

文政10年1827年7月10日藩主三宅康明28歳という若さ病死する田原藩知行高比べて藩士の数が多く、さらに所領田原痩地であった上に風水害被害多く、常に財政難状況であった。そこで藩首脳部貧窮する藩財政打開するため、当時家老河合道臣財政再建により比較裕福であった姫路藩酒井家から持参金目当て養子迎えようとした。これに対し三宅家血統重視した渡辺崋山真木定前はこれに強く反発し、康明の異母弟である友信を擁立しようと運動行った。 藩首脳部病気療養名目に友信を田原へ送ることに成功し10月11日に友信は崋山生玄順、上田亮章らを連れて江戸発った10月15日酒井家から稲若(三宅康直)を養子迎え内約成立し、藩内に公表された。10月22日養子縁組成立の報が田原伝えられると、友信は田原城藤田丸に事実上軟禁され翌年5月にようやく江戸へ戻ることが許された。 康直が藩主となって以降も、崋山三宅家血統残そう奔走し、康直の娘と友信の長男康保を娶わせて婿養子とすることに成功した一方で姫路藩河合道臣とも交渉して婿養子についての諒解得た崋山死後、康直は正室勧めもあって実子世継ぎにしようとするが、真木定前の諫死により康保世継ぎとすることを再確認した。嘉永3年1850年)に康保第12代藩主となり、友信は藩主実父としてさらなる尊敬集めようになった

※この「藩主後継問題」の解説は、「三宅友信」の解説の一部です。
「藩主後継問題」を含む「三宅友信」の記事については、「三宅友信」の概要を参照ください。

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