藩主後継問題
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文政10年(1827年)7月10日、藩主三宅康明が28歳という若さで病死する。田原藩は知行高に比べて藩士の数が多く、さらに所領の田原も痩地であった上に風水害の被害も多く、常に財政難の状況であった。そこで藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時家老河合道臣の財政再建により比較的裕福であった姫路藩主酒井家から持参金目当ての養子を迎えようとした。これに対し、三宅家の血統を重視した渡辺崋山や真木定前はこれに強く反発し、康明の異母弟である友信を擁立しようと運動を行った。 藩首脳部は病気療養を名目に友信を田原へ送ることに成功し、10月11日に友信は崋山、萱生玄順、上田亮章らを連れて江戸を発った。10月15日、酒井家から稲若(三宅康直)を養子に迎える内約が成立し、藩内に公表された。10月22日に養子縁組成立の報が田原へ伝えられると、友信は田原城の藤田丸に事実上軟禁され、翌年5月にようやく江戸へ戻ることが許された。 康直が藩主となって以降も、崋山は三宅家の血統を残そうと奔走し、康直の娘と友信の長男の康保を娶わせて婿養子とすることに成功した。一方で姫路藩の河合道臣とも交渉して、婿養子についての諒解を得た。崋山の死後、康直は正室の勧めもあって実子を世継ぎにしようとするが、真木定前の諫死により康保を世継ぎとすることを再確認した。嘉永3年(1850年)に康保が第12代藩主となり、友信は藩主の実父としてさらなる尊敬を集めるようになった。
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