藩主就任
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嘉永元年(1848年)の7月に江戸で13代藩主・山内豊熈が死去する。豊熈には嗣子がなかったため、実弟の山内豊惇が跡を継ぐが、9月18日に藩主在職わずか10日余りで急死し、山内家は御家断絶(お取り潰し)の危機に瀕した。豊惇の後継としてまず候補に挙げられたのは長男寛三郎であったが、病気のため擁立が見送られることとなった。次に候補に挙げられた豊惇の実弟豊範(後の16代藩主・山内豊範)も、まだ3歳と幼少であったため擁立は見送られ、最終的に、南屋敷で部屋住の生活を送っていたころから英名が噂されていた豊信が、後継者として指名された。豊信の家督相続において土佐藩は豊惇の死を隠蔽し、まず豊惇が豊信を養嗣に迎える形をとり、そののちに豊惇の隠居と、豊信の相続を幕府に申し出た。この工作の際には、薩摩藩主島津斉彬や筑前福岡藩主黒田斉溥、伊勢津藩主藤堂高猷、伊予宇和島藩主伊達宗城の周旋があった。とくに豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実兄薩摩藩主島津斉彬は当時幕府の実権を握っていた老中首座阿部正弘と親交があり、幕府も裏工作を黙認した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}候姫の格別の推挙と幕閣に働きかけをした上での藩主就任が、その後の容堂の倒幕的行動を制限したとも言われる。[独自研究?]嘉永元年(1848年)12月27日、豊信は高知を出発し、翌月21日に江戸に到着、同26日に家督の相続を幕府から許可された。翌年1月8日には豊範を豊信の養子とし、嘉永3年9月11日に右大臣三条実万の養女正姫(なおひめ)と結婚した。同年の12月16日に豊信は従四位下土佐守に任じられ、翌年の12月16日には侍従に昇任した。
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藩主就任
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明和7年(1770年)9月4日、播磨国安志藩主・小笠原長為の長男として誕生。生母が側室であったため、長為の正室に男児が生まれると、忠固は次男とされた。しかし寛政6年(1794年)、本家の藩主である小笠原忠苗の養嗣子となり、文化元年(1804年)7月20日の養父の隠居により家督を継いだ。文化4年(1807年)には朝鮮通信使の正使の接待、さらに小倉城の火災焼失などによる再建費用などで出費が相次ぎ、藩財政は悪化する。
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