藩主の死と領内の動揺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 01:27 UTC 版)
享保11年の藩主は11歳の松平浅五郎であったが、10月中ごろから病が重くなり重体となった。幼少のため跡継ぎもいないため、浅五郎が亡くなれば藩は取り潰しか減知になる危機が迫った。藩ではそうなる前に今年分の年貢の徴収を完了するため貢納期限を40日繰り上げることを命じ、完納するまでは麦の植え付けなどの他の農作業を禁じるという強硬手段を実施した。浅五郎は11月11日に江戸で死去したが藩主危篤の知らせは17日に松島平八によって津山に達し、18日早朝に伊丹河右衛門が藩主の逝去を津山に届け同日家臣の主だった者に伝達され、順次領内に伝達された。津山藩は一旦幕府に収公され、徳川家康の血脈を継ぐ名家を残すために同属の越前松平家の連枝である又三郎に五万石(領地を半減)と津山の城が与えられた。この知らせは23日の夜に増田平馬によって津山に届けられた。
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