藩主人質未遂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
6月3日、米沢藩主上杉斉憲が自ら1000人余の兵を率い米沢を出発、6日に越後下関(関川村)に到着。これに先立ち5日、斉憲の使者として、軍監大滝新蔵が新発田へ急行。直正に下関に来てもらい軍議を開きたいと申し入れてきた。1000人余の米沢兵のいるところへ出て来いということは、人質となれということである。6月7日、直正、溝口内匠、少数の藩士が城を出た。しばらく進むと、竹槍を持った領民たちが道を塞いでいた。城下の町民や、五十公野、浜通、新発田、岡方などから集まった農民だった。領内島潟村大庄屋小川五兵衛ら村役人たちが群衆を指揮している。さらに群衆の中には、変装した新発田藩士も混じっていた。直正の籠は清水谷の別邸に入り、9日まで滞在し、帰城した。 領民、その邸を囲みて警護せり(是れを領民蜂起の第三とす。けだし三回の蜂起、皆重臣の密計ならん。然れども、今その由る所を詳かにする能わず) — 新発田藩戊辰始末 新発田藩は、諸藩への申し開きのために領民を扇動した首謀者を捕えて見せねばならなかった。首謀者として、折笠泰助、阿部求之丞を縄にかけ、下関へ護送していった。米沢の取調べは峻烈だった。しかし、2人は新発田へ送り返されてくる。真犯人が小物ではないことを見抜いていたからか。藩では彼らを投獄したが、西軍が上陸すると釈放している。 領民蜂起の裏には多くの藩士がいたようである。溝口伊織は5月頃、家臣田宮余一を酒癖を理由に追放した。田宮は姿を消したが、実は伊織の密命を受けていたという。6月7日の領民蜂起のとき、あちこち飛び回って、なにか指揮している田宮の姿があった。溝口内匠の家臣小川作兵衛も田宮の同志で、二人は領民の間に地下運動を組織していたといわれる。
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