領民との連携
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
同盟に加盟後、新潟で開かれる列藩の会議に新発田も代表の重臣と、守備の兵力を出すことになる。5月19日、新発田城で藩兵の出陣式が行なわれる。組頭堀主計を士大将とし、物頭里村縫殿、服部吉左衛門の率いる200名余、砲 4門が出陣した。この前日に一部が先発し、このうち 2小隊は庄屋の子弟で組織された農兵隊だった。堀隊は21日に新潟着。米沢藩総督色部長門が来るまでは会議も開かれない。前線に1兵でも欲しい会津、米沢から強烈な出兵督促がくる。堀は新潟の警備のために来たのだからと断るが、のらりくらり言い抜けることはできず、出兵の約束をさせられてしまう。27日新潟を発ち、沼垂で 1泊。翌日加茂へ出発しようとしたところ、領民が道をふさぎ、橋を落とし、川にも柵がしてあった。領民が官軍とは戦わないでくれと懇願。堀隊はこのまま沼垂へ留まる。 是れを領民蜂起の第一となす。けだし藩士ひそかに、領民を使嗾(しそう、そそのかす)せしならん — 新発田藩戊辰始末 堀主計隊が出兵督促を受けていた頃、新発田城にも出兵督促が来ていた。6月1日、物頭脇本庫之助、高田忠兵衛、高山安兵衛の部隊が加茂へ出発した。普通に行けば2日の道程だが、4日になっても新津にも到着しない。米沢は怒り、加茂の定宿の明田川某に尋ねると、新潟、沼垂に警備にでもいったのだろうかととぼける。6月6日、新津に到着。ここで竹槍を持った農民の大群に囲まれ進めなくなる。 我が領民四方より馳せ集まりその数、数百千人。我が進軍を阻塞し、歎願して曰く、進軍するなかれ、官軍と戦うなかれ(是れを領民蜂起の第二とす) — 新発田藩戊辰始末 6月7日、新発田城下で大変なことが起きたという噂が入ってくる。この噂は根も葉もないことではなく、藩主人質未遂事件に関することのようである。脇本、高田らは藩に無断で新発田へ帰る。しかし城下へは入れてもらえず、役職は免職、知行は50石ずつ減らされた。同盟諸藩の手前、厳重に処罰せざるを得なかった。後任に、加藤友左衛門、林文左衛門が任命され、加茂へ送るのかと思えば、沼垂へ進発させている。
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