色部久長
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色部 久長(いろべ ひさなが)は、江戸時代後期から末期にかけての米沢藩の家老。受領名が長門守であったことから色部長門の名で知られている。戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった越後府で港のある新潟町(現在の新潟市)を警備する為に総督に命じられ、奮戦し功績を残した。
- ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P615
- ^ 『甘糟備後継成遺文』「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月13日」甘糟勇雄編1960.6 P191-192
- ^ 「史談会速記録 合本19」千坂高雅談 原書房、1971-1976年P178、P248-249
- ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P624-625
- ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P11-13
- ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P640
- ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P16
- ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P14
- ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P641
- ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P16
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P669「千坂高雅が禁固に処されたとき、上京した上杉茂憲は、戦争の首謀者について土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、高鍋の秋月種樹、それに黒田了介、西郷吉之助らに諮り、その賛助を得て三条実美に委細を具申する。 つまりすでに新潟の攻防戦で戦死した家老の色部をもって千坂高雅に代る首謀者として具申書を改め、千坂の罪を寛恕されたい旨懇請したのである。その結果、廟議もこれを認め高雅の謹慎が解除されたのである。高雅は後になってこのことを知った。」
- ^ 「戊辰雪冤」米沢藩士・宮島誠一郎の明治P154-158 友田昌宏 講談社新書2009.8.20「宮島誠一郎が木滑に同伴し、鍜治橋の土佐藩邸を訪ねたのは12月18日のことである。・・誠一郎の対応にあたったのは側用役の西野彦四郎(友保)であった。 秋月の案(首謀者を色部として届け出る案)について説明を受けた西野は、山内容堂へのとりなしを請けおう。翌19日、木滑と誠一郎の両名は山内容堂の意見を聞くために再度土佐藩邸を訪れた。・・ここに至って、両名は、色部を首謀者として届け出るのでその旨をお含みのうえ御沙汰願いたいと西野に依頼する。 12月22日に、米沢藩は色部を「叛逆首謀」として新政府に届け出た。これによって、千坂・甘糟は連累を免れたのである。」
- ^ 「戊辰の役と米沢」戊辰の役戦跡訪問報告 下平才次P104-105 「色部長門追悼碑の裏面に発起者斎藤已三郎、賛助者21名の名が刻まれていたが、その中に上杉憲章、平田栄二、黒崎真也、黒金泰義、黒井悌次郎、千坂智次郎、千坂洋三郎、宇佐美駿太郎、八木孝助等の米沢人名があった」置賜史談会 昭和43.12.1
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