北越戦争
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北越戦争(ほくえつせんそう、慶応4年5月2日〈1868年6月21日〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、長岡藩(現新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。
- ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
- ^ a b 上越市公文書センター, 2018 & p2.
- ^ 長岡藩が輸入された火器を購入したのは、ファーブル・ブラント商会ともスネル兄弟とも言われている。
実際にどのような兵器を購入していたのかについて、現在残っている公文書中の記録には下記のように記されている。
陸軍省大日記 「大日記 壬申 3月 諸省府県之部己」
陸軍省 明治5年3月
「三月廿七日 土曜 第三百八十二号 元長岡藩兵器処分伺 長岡藩被廃候仰兵器ハ兵部省ヘ可差出旨従太政官御達相成之柏崎県新庄権知事上京之砌右差出方同省ヘ相伺候処当分其侭可差置旨御差図ニ付今日迄差置候然ル処当節諸廃県兵器夫々新発田ヨリ営ヘ輸送可致ニ付右之長岡藩兵器モ同様同営ヘ輸送仕度仍テ目録相添此段相伺候以上 壬申三月廿七日 柏崎県参時馬伏断三 陸軍省御中 伺之通 三月廿八日 別紙 記 一ミニール銃 百五拾挺〜」
この記録はここで途切れているが、ミニエー銃を装備していたことまでは確実なようである。 - ^ 新潟県小千谷市役所 報道資料3 平成24年2月16日
- ^ 大山柏『戊辰役戦史』上(補訂版)、時事通信社、1988年、850-862頁。
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』695頁 復古外記 越後口戦記 第四 明治元年七月二十八日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月21日閲覧。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』746~747頁 復古外記 越後口戦記 第六 明治元年八月二日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月21日閲覧。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第14冊』4頁 復古外記 越後口戦記 第七 明治元年八月四日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)8月10日) (2018年10月21日閲覧。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第14冊』23頁~24頁 復古外記 越後口戦記 第七 明治元年八月七日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)8月10日) (2018年10月21日閲覧。)
- ^ 英国公使館員の維新戦争見聞記』p112-113ローレンス・オリファント/ウィリアム・ウィリス 中須賀哲朗訳 1974/08/31 校倉書房
北越戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:15 UTC 版)
5月2日の小地谷談判決裂後、5月10日に長岡藩は妙高高原の榎峠を守る新政府軍に攻撃を開始し、北越戦争が始まった。翌日より、朝日山の争奪戦を行い、長岡藩が奪取した。この戦いで、長州の松下村塾の出身の時山直八が戦死する。 5月19日に新政府軍が長岡城を陥落させ、以降、長岡藩兵は奥羽越列藩同盟軍の一員として北越地区の要所で新政府軍と対峙・戦闘する状況が続いた。
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北越戦争
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詳細は「北越戦争」を参照 越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したが、イタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟にとって武器の供給源となった。5月2日、新政府軍の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で、長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた各種支援の受け入れを拒否し、獨立特行の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府の権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。 長岡藩は河井により兵制改革が進められ武装も更新されていた。同盟軍は河井の指揮下で善戦したが、5月19日に長岡城が落城。7月25日に同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたが(八丁沖の戦い)、この際指揮をとっていた河井が負傷した(後に死亡)。新政府軍はすかさず長岡城を再奪取し、4日後の29日に長岡藩兵は撤退した。さらに新発田藩が寝返り、新政府軍が軍艦で上陸し、米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。
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北越戦争
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鯨波戦争が始まると新政府軍は海道と山道の分進策を採った。4月27日、鑑三郎率いる雷神隊は海道から進撃する新政府軍と交戦、地の利を得て薩長の突破を許さなかった。夕刻となったことで同盟軍は番神堂に退き、新政府軍も一旦は東の輪まで進んだが兵の疲労が大きく、鯨波まで後退した。28日には、新政府軍の別働隊により山道の会津軍が撃破されたため、桑名軍も撤退した。 北越戦争では5月10日、長岡・会津・桑名藩が朝日山と榎峠を奪取した。新政府軍は榎峠を奪回するため朝日山の確保を目指し、13日、前線を離れていた山縣有朋の代わりに時山直八が新政府軍を率いて会津軍を攻撃する。しかし、鑑三郎率いる桑名軍の猛射を浴びたことで時山は戦死した。その後は両軍ともに攻め手を欠き、砲撃戦に終始した。 それからも雷神隊は攻防を続けたが戦局は不利になる一方であり、新潟港が制圧され、長岡城も陥落したことで、佐川官兵衛と共に会津に退却する。
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