北越戦争以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 15:56 UTC 版)
北越戦争直後は改姓改名して、三島宗右衛門と名乗ったこともあったが、明治以後は三島億二郎と改名した。明治2年(1869年)、版籍奉還によって、長岡藩知事となった藩主・牧野忠毅は、牧野頼母、小林虎三郎、三島の3人を藩の大参事に任命した。さらに、明治3年(1870年)の長岡廃藩に伴い、柏崎県大参事に任命された。 その頃、唐物商の岸宇吉邸には、舶来の石油ランプがあった。このランプを囲むようにして、三島と岸を中心に小林、森源三ら士族、大橋佐平ら商人、医師の梛野直、教育者の藤野善蔵らが集まって、町の復興や商業振興について語り合った。やがて、この集まりはランプ会と呼ばれるようになった。 こうしたつながりを支えとして三島は、士族授産のための産物会所(明治3年)・女紅場(明治9年)の創設を推進した。また、明治11年(1878年)には岸宇吉、関矢孫左衛門らと共に、第六十九国立銀行(北越銀行の前身)の創設発起人となったが、この銀行は秩禄処分で士族が得た公債を資本としていた。 また、国漢学校の拡充や長岡洋学校の創設(明治5年(1872年))、育英団体長岡社の創設(明治8年(1875年))といった教育政策、長岡會社病院(明治6年(1873年)、長岡赤十字病院の前身)の開設などの衛生行政にも尽力した。 この間、三島は大区小区制導入によって柏崎県第三大区長、柏崎県廃止により新潟県第十六大区長(明治9年(1876年))、古志郡長(明治12年(1879年))を歴任している。 明治15年(1882年)、古志郡長を辞職した後は北海道開拓に傾注し、明治19年(1886年)には笠原文平、大橋一蔵、関矢孫左衛門、岸宇吉らと北越殖民社を開設した。 私利私欲を求めず、経済の復興・発展を目指したその功績は大きいが、河井・小林ほど知名度は高くない。
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