北越戦争と出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 10:03 UTC 版)
慶応4年(1868年)5月の北越戦争にあっては勤皇を説き、迫り来る薩摩・長州を中心とする官軍に対して藩内で恭順・非戦を説くが、発言力が低下したため果たせず、両軍衝突の直前に、自ら屋敷に火をかけて山中に潜んだ。 正室の金媛と惣領の三郎重恭、及びこのとき存命していた祖母を稲垣家の属臣である原巳之太に供をさせて、千川崎村の駒形次兵衛の許に隠した。 自身は、同年10月17日に長岡を脱出して、新発田を経て三根山に潜伏。信濃国松代及び同国の長岡支藩・小諸藩に赴き、江戸に逃れて10月11日(ママ)浅草広小路に辿り着く。同月17日から愛宕の旅館に投宿した。同月16日に江戸の軍官(官軍)に出頭して、藩主家の助命嘆願をする。
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