北越秘説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
第一回唐物抜荷事件の概要が明らかになった後、老中水野忠邦は川村修就に対し、抜荷の実態を調査報告するよう命じた。川村は北陸、越後一帯を内偵し、天保11年(1840年)9月に報告書「北越秘説」を提出する。言い伝えでは新潟町内の内偵時、川村は飴売りとなって鉦を叩きながら街中を歩きながら抜荷の情報を集めていたという。 川村の内偵は第一回唐物抜荷事件の後であったために検査体制が強化されていたが、それでも新潟町には漢方薬種、唐更紗、朱などの唐物が多く出回っていて、しかも京都、大坂、江戸よりも安価であった。抜荷品ではないかと調べてみたところ、新潟町の商人たちは春に京、大坂方面に商品の仕入れに行く際に長崎まで向かい、そこで唐物を仕入れて帰るというが、実際のところはよくわからないとの噂であった。また新潟の検査体制が強化されたために抜荷の主取引場所は富山となり、富山から北陸、信濃そして関東方面の各地に抜荷の漢方薬種、朱などが流通するようになり、また米沢藩の預所である粟島が薩摩船の抜荷取引の舞台となっているとの噂を書き記している。 また最近になってまた新潟港に薩摩船が姿を見せるようになっており、天保11年(1840年)5月にはサツマイモを積んだ薩摩船が現れて、沖に停泊したまま新潟町の“その筋の者”と取引を行った後に酒田の方へと向かったという話が流れているとの情報も載せている。
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