摘発と捜査、取り調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「唐物抜荷事件」の記事における「摘発と捜査、取り調べ」の解説
抜荷に関する内偵を行っていた川村修就が報告書「北越秘説」を提出した直後の天保11年(1840年)11月、石見船によって新潟港に運ばれた長崎会所を通さない抜荷品の漢方薬種を、新潟町の廻船問屋である小川屋金右衛門が売買したことが発覚した。これが第二回唐物抜荷事件の発端であった。天保11年11月5日(1840年11月28日)、小川屋金右衛門ら15名が新潟町奉行の取り調べの後、入牢となった。この第二回唐物抜荷事件では、新潟町内でも富裕な商人として知られていた高橋次郎左衛門と当銀屋善平に嫌疑に掛けられたために大きな話題となった。なお高橋次郎左衛門と当銀屋善平は、ともに北越秘説の中で抜荷交易をもっぱらにしていると指摘されていた。 天保12年6月10日(1841年7月27日)、江戸から関東取締出役の手代2名が新潟に到着し、取り調べに加わった。取り調べ対象も広げられ、容疑が固まったと見られた小川屋金右衛門ら12名は江戸に護送されることになり、天保12年7月3日(1841年8月19日)に江戸に到着した。到着後、容疑者らは取り調べ中の収容方法を入牢者、手鎖の上で宿預、宿預と区分けされ、勘定奉行梶野良材が取り調べを担当することになった。その後、新潟で取り調べられた容疑者のうち鈴木屋長八ら2名を除き、残りの容疑者たちも江戸で取り調べられることに決まり。天保12年7月27日(1841年9月12日)には江戸に到着し、やはり勘定奉行の梶野による取り調べを受けることになった。 天保12年(1841年)11月ごろにはほぼ取り調べの目途が立ち、高橋次郎左衛門と当銀屋善平、当銀屋庄五郎の3名のみ取り調べが継続された。結局、新潟町の有力商人であった高橋次郎左衛門と当銀屋善平、そして当銀屋庄五郎は嫌疑なしとされた。
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