新潟上知とは? わかりやすく解説

新潟上知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)

越後長岡藩」の記事における「新潟上知」の解説

唐物抜荷事件」も参照 新潟は、牧野家入封以来長岡藩領地であり、正徳3年1713年)に越前国敦賀の人である中村源七進言受けて仲金制を敷いて以降長岡藩重要な財源となった新潟町港湾都市として発展したのも最初2人藩主堀直寄牧野忠成新潟商人保護して河川交通海上交通発展させたことがきっかけであり、また、先述分水事業新潟よりも古い港町である新発田藩領の沼垂との7度にわたる係争起こった際は藩も係争関与した幕府権力回復のため、上知令などの統制強化策推し進めようとしていたこともあり、天保14年1843年)に新潟町の上知が命じられ外港新潟幕府返上し新潟港代替地として、天領であった三島郡高梨村600石を与えられた。 それより前、新潟港では薩摩藩が同港を利用して貿易抜荷)を行い莫大な利益得ていたことが発覚したが、長岡藩はこれを2度見逃していた。貿易とそれによる利益独占したい幕府にとっては看過できないことであった。そこで流通統制強化するため、新潟港直轄化を行った一説この上知は、老中水野忠邦抵抗勢力となっていた寛政の遺老である牧野家対す嫌がらせともいわれる長岡藩新潟港から得ていた租税1万5千石相当あったため、上知は藩財政にとって大打撃となった

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新潟上知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 01:45 UTC 版)

川村修就」の記事における「新潟上知」の解説

唐物抜荷事件」も参照 1598年慶長3年)より長岡藩であった新潟港では、唐物安価売られており、薩摩からの密貿易によって運ばれてきたのではないかという風聞流れていた。修就は真偽確かめるべく、飴屋扮して新潟潜入し情報収集行ったと言われる明治維新後、孫にあたる川村清雄証言している他、小松重男も『新潟市史』に収録されている文書北越秘説』『北越秘説付言』から、御庭番指揮して捜査させたか、自ら新潟赴いて調査した推定している。 1843年天保14年6月17日川村修就江戸城新潟奉行辞令を受け、新潟北海防衛拠点づくりを進めるよう指示された。幕府意図としては、日本海近海出没し始めた異国船に対す防衛拠点新潟構築することだった。 川村修就就任150周年記念して、修就の砂防植栽功績をたたえ、1993年平成5年12月新潟市西海岸公園銅像建てられた。製作は新潟市出身彫刻家高橋洋氏。

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