新潟上知
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「唐物抜荷事件」も参照 新潟は、牧野家入封以来の長岡藩の領地であり、正徳3年(1713年)に越前国敦賀の人である中村源七の進言を受けて仲金制を敷いて以降、長岡藩の重要な財源となった。新潟町が港湾都市として発展したのも最初の2人の藩主、堀直寄と牧野忠成が新潟の商人を保護して河川交通・海上交通を発展させたことがきっかけであり、また、先述の分水事業や新潟よりも古い港町である新発田藩領の沼垂との7度にわたる係争が起こった際は藩も係争に関与した。 幕府は権力回復のため、上知令などの統制強化策を推し進めようとしていたこともあり、天保14年(1843年)に新潟町の上知が命じられ、外港の新潟を幕府に返上し、新潟港の代替地として、天領であった三島郡高梨村600石を与えられた。 それより前、新潟港では薩摩藩が同港を利用して私貿易(抜荷)を行い莫大な利益を得ていたことが発覚したが、長岡藩はこれを2度も見逃していた。貿易とそれによる利益を独占したい幕府にとっては看過できないことであった。そこで流通統制を強化するため、新潟港の直轄化を行った。一説にこの上知は、老中・水野忠邦の抵抗勢力となっていた寛政の遺老である牧野家に対する嫌がらせともいわれる。 長岡藩が新潟港から得ていた租税は1万5千石相当あったため、上知は藩財政にとって大打撃となった。
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新潟上知
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「唐物抜荷事件」も参照 1598年(慶長3年)より長岡藩領であった新潟港では、唐物が安価で売られており、薩摩からの密貿易によって運ばれてきたのではないかという風聞が流れていた。修就は真偽を確かめるべく、飴屋に扮して新潟に潜入し情報収集を行ったと言われる。明治維新後、孫にあたる川村清雄が証言している他、小松重男も『新潟市史』に収録されている文書『北越秘説』『北越秘説付言』から、御庭番を指揮して捜査させたか、自ら新潟に赴いて調査したと推定している。 1843年(天保14年)6月17日、川村修就は江戸城で新潟奉行の辞令を受け、新潟に北海防衛の拠点づくりを進めるよう指示された。幕府の意図としては、日本海近海に出没し始めた異国船に対する防衛拠点を新潟に構築することだった。 川村修就の就任150周年を記念して、修就の砂防植栽の功績をたたえ、1993年(平成5年)12月、新潟市西海岸公園に 銅像が建てられた。製作は新潟市出身の彫刻家、高橋洋氏。
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