えど‐じょう〔‐ジヤウ〕【江戸城】
江戸城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/11 13:39 UTC 版)
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている[3]。
注釈
- ^ 今の梅林坂に当たる。社は江戸時代に城外の平河門外、次いで麹町に移されて平河天満宮となった。道真崇拝や梅との関わりについては「天満宮」「菅原道真#飛梅伝説」を参照。
- ^ このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。なお、家康の家臣である松平家忠の日記(『家忠日記』)によれば、実際の入城日は7月18日であったという[13]。
- ^ 従来、徳川家康入部前の江戸が寂れていて寒村のようであったとされてきたが、実際には荒川や入間川などの関東平野一帯の河川物流と東京湾の湾内物流の結節点としてある程度は栄えていたとされる。また、なんらかの戦略的・経済的な価値がなければ、徳川氏もそこを本拠に選ばなかったはずである。また、柴裕之は小田原攻め中に秀吉が江戸城に自らの御座所を設ける構想を示したとする文書(『富岡文書』)の存在を指摘し、秀吉が関東・奥羽統治の拠点として江戸城を高く評価していたとする指摘をしている[14]。また、鎌倉に関する研究において、福島金治は『吾妻鏡』において源頼朝が鎌倉に入った当時の鎌倉の姿の描写(治承4年10月12日条)が徳川家康が江戸に入った時当時の江戸の姿に引用されている可能性を指摘している[15]。
- ^ この石船を運ぶ際、暴風雨によって数百隻の船が沈んだとされる。
- ^ 『秘閣図書の内 炎上の節焼失並従来欠本の目録』が作成された。
- ^ 改易されるまでは里見氏の屋敷も残っていた。
- ^ なお宮上案に従えば、三代の天守は壁面・瓦の材質・破風の配置などを除けば、基本的に同じ規模・構造をしていた。
- ^ 多大な支出ばかりが嵩んでいた幕府財政の「近年中のさらなる悪化・破綻が予想された」ためとの説がある。
- ^ その名残として、天守曲輪に当たる御休息(数寄屋、富士見)多聞櫓の北側から石室(西側二重櫓跡)までの本丸の石垣は現在も他より一段高くなっている。
- ^ 7重・9重には「何段にも重なる」という意味もあるので、5重の可能性が高い。
- ^ ただし金澤案は『愚子見記』の、三浦案は『愚子見記』『当代記』双方の記述内容に矛盾する。
- ^ 後に二ノ丸東照宮として移転。また、『津軽家古図』には最上階上々段に東照宮があったと記載されている。
- ^ 櫓の数や規模は時期により異なるので、これは一例である。
- ^ 御殿の門なども含んだ数。主要な門57棟の内、櫓門は45棟。更に枡形を構成しているのはおよそ39棟。
- ^ 現在の同心番所は門の中に移転している。
出典
- ^ 竹内 2003, p. 71 。※異説あり。
- ^ a b c d e f 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),日本の城がわかる事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,事典・日本の観光資源,世界大百科事典. “江戸城とは”. コトバンク. 2022年12月12日閲覧。
- ^ a b c "江戸城". デジタル大辞泉. コトバンクより2022年12月12日閲覧。
- ^ 伴 1974 [要ページ番号]
- ^ 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』、講談社『日本の城がわかる事典』. “江戸城”. コトバンク. 2019年10月12日閲覧。
- ^ “江戸のお侍さんの勤務形態”. 羽田会の部屋. 2022年12月12日閲覧。
- ^ “東京散歩「江戸史跡散歩」(江戸城無血開城の史跡を歩く)”. edoshiseki.com. 2022年12月12日閲覧。
- ^ “江戸東京医学史散歩10”. sisoken.la.coocan.jp. 2022年12月12日閲覧。
- ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典. “江戸開城とは”. コトバンク. 2022年12月12日閲覧。
- ^ “変貌 - 5.江戸城を皇居と定め東京城と改称:”. 国立公文書館. 2022年12月12日閲覧。
- ^ 山田 2003, p. 35-40
- ^ 山田 2014 [要ページ番号]
- ^ 柴 2017, p. 191.
- ^ 柴 2017, p. 193.
- ^ 福島金治「鶴岡八幡宮の成立と鎌倉生源寺・江ノ島」地方史研究協議会編『都市・近郊の信仰と遊山・観光 交流と引用』(雄山閣、1999年)ISBN 4-639-01640-9 pp.24-28・36.
- ^ 杉山宏生「西相模・東伊豆の安山岩石丁場」『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年5月1日、33頁。
- ^ [没後200年 伊能忠敬を歩く](47)描かれた江戸城:地方と接続 九つの御門『毎日新聞』朝刊2023年2月13日(文化面)同日閲覧
- ^ 日本の城がわかる事典『江戸城』 - コトバンク
- ^ お昼のドンに代わって登場『東京日日新聞』昭和4年5月1日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p152 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 正院 1873年。
- ^ 気象庁『気象百年史 本編』気象庁、1975、50ページ
- ^ 気象庁『測定時報23』気象庁、1956、235,236ページ
- ^ 「江戸城天守 天高く 高さ58.63メートル、攻撃装置ない太平の象徴」『『東京新聞』朝刊』中日新聞東京本社、2015年11月4日。2015年12月19日閲覧。オリジナルの2015年12月9日時点におけるアーカイブ。
- ^ 中江 2010, p. 159.
- ^ “第36回「江戸城にお能を見に行く!」展「千代田之御表」”. 公式ウェブサイト. 東京都立図書館. 2009年11月24日閲覧。
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- ^ a b 学研 1995 [出典無効]
- ^ “これが日本史上最大の「江戸城天守」 30分の1復元模型、29日から公開”. 毎日新聞 (2020年9月28日). 2022年12月12日閲覧。
- ^ 「皇居東御苑 江戸城天守復元模型」宮内庁(2020年10月確認)
- ^ 盛況・好評裡に終了!「江戸城寛永度天守『復元図』完成報告会」 江戸城再建を目指す会 2010年6月17日。[リンク切れ]
- ^ “江戸城御本丸御天守1/100建地割”. 公式ウェブサイト. 東京都立図書館. 2019年10月12日閲覧。
- ^ 『読売新聞』2017年2月9日1面
- ^ 「徳川家康が築城の江戸城 当時の構造描いた絵図 発見」[リンク切れ]NHK NEWS WEB
江戸城
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「エロ将軍と二十一人の愛妾」の記事における「江戸城」の解説
田沼意次 演 - 安部徹 老中。江戸城内にて実権を持ち、自身の政権を磐石にするため11代将軍に一ッ橋豊千代(徳川家斉)を推挙する。“事故”を起こした豊千代の代わりに角助を将軍の代役に立てるお吉の策(はなし)に乗る。 岩本内膳正 演 - 名和宏 田沼の側用人。出世欲が強く、お万の方とは密通の間柄で田沼の娘・萩乃とも婚姻関係である。 関本啓之進 演 - 大泉滉 江戸城幕格の家臣。宦官制度採用に賛同したために宦官第一号となって実行に移される。 松平定信 演 - 中村錦司 老中。反田沼派で田沼に対抗して11代次期将軍に尾張・徳丸君を推挙する。「決断と実行」こそが政治の真髄と説く。 嘉門 演 - 那須伸太朗 一ッ橋家の御用人。豊千代の教育係。 一ッ橋刑部 演 - 村居京之輔 一ッ橋家の主人。豊千代の父。 一ッ橋豊千代(徳川家斉) 演 - 林真一郎 幼き頃から博学多才で神童誉れ高き人物。昼夜を問わず勉学に励む。 徳川家治 演 - 田中小実昌 十代将軍。恍惚の人であり、女(大奥)遊びにふける。
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江戸城
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松平 辰影(まつだいら たつかげ) 声 - 阿部大樹 花嫁行列を指示した人物。常陸国水戸藩の重鎮だが、作中では江戸に出てきている。 縁とは顔見知り。縁との確執は彼のルートで詳細が分かる。 生来病弱で身体は弱いが、幕府に対する忠誠心は強い。 徳川 家光(とくがわ いえみつ) 声 - 村田太志 徳川幕府第三代将軍。 外見は若いが、懐が深く上に立つものとしての資質を充分に備えた人物。 とあるルートにて、家光自身も相当の剣の使い手であることが判明する。
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「江戸城」の例文・使い方・用例・文例
- 江戸城という城
- 昔の江戸城で,将軍の夫人や側室が住んでいた所
- 江戸城の馬をおりる場所
- 江戸時代において,江戸城や諸大名の邸内の表と奥との境界の出入口
- 江戸城見付の警固に当たった役割の奴
- 幕府を執った江戸城内の部屋
- 江戸幕府において,江戸城大手三の門を守備した役職
- 江戸城の,将軍が住んだ区域
- 広敷という,江戸城内にあった大奥勤務の役人の詰所
- 江戸城で,老中や若年寄が政務をとった部屋
- 江戸城大奥への出入り口
- 江戸城見付の警固に当たった役割
- 1860年3月3日,徳川幕府の大(たい)老(ろう),井(い)伊(い)直(なお)弼(すけ)(伊(い)武(ぶ)雅(まさ)刀(とう))が江戸城の門の1つ,桜(さくら)田(だ)門(もん)の外で18人の男たちの一団に襲撃される。
- 江戸時代初期の江戸城の絵図が発見される
- 徳川家康の時代の江戸城の詳細な絵図が,島根県の松江歴史館に所蔵されている複数の城の絵図の中から発見された。
- 家康の江戸城の詳細は謎(なぞ)に包まれていた。
- 今回の絵図はその時代の江戸城に光を当てるものだ。
- 奈良大学の千(せん)田(だ)嘉(よし)博(ひろ)教授は「私たちは今では,家康が豊臣氏との戦いに備えるために江戸城を強化したと確信している。」と述べた。
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