橋家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
永井家・松平家の血脈が〈サムラヒ〉「武」とすれば、橋家は三島にとって「文」の血脈となる。 三島の母・倭文重の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴(雅号・鵠山)は、加賀藩藩主・前田家に代々仕えた漢学者・書家であった。名字帯刀を許され、学塾において藩主・前田家の人々に講義をしていた。 高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主の賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)の滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴、健堂、健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元で、島根県の出雲の出身である。 曽祖父・橋健堂は、平民・女子教育の充実など教育者として先駆的であったが、健堂が出仕した「壮猶館」や、「集学所」(夜間学校のはしり)は、藩の重要プロジェクトと連動し、単に儒学を修める藩校だけでなく、英語や洋式兵学も教え、ペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関でもあった。教授であった健堂はその軍事拠点の中枢にあり、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場の人物であった。 健堂が学び、親交を持った佐野鼎は、共立学校(現・開成中学校・高等学校)の創設者であり、婿養子の健三は5代目の開成中学校校長を務めた。健三の長男・健行も開成中学校に通った(開成との縁については、三島の祖父・定太郎も開成の前身・共立学校出身で、永井家の高祖父・永井尚志が1848年に学問吟味に合格した昌平坂学問所もまた開成との歴史的つながりがあり、尚志の孫で三島の大叔父にあたる大屋敦や、三島の父・平岡梓、息子・威一郎も開成中学校出身者である)。 橋家系図 往来 船次郎 橋一巴 つね 健堂 ふさ こう 橋健行 瀬川健三 雪子 橋正男 トミ 橋健雄 平岡公威(三島由紀夫) 紀子 より 橋行蔵 ひな 倭文重 杉山瑤子 平岡威一郎 美津子 平岡梓 平岡千之 重子
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