昌平坂学問所とは? わかりやすく解説

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しょうへいざか‐がくもんじょ〔シヤウヘイざか‐〕【昌平坂学問所】

読み方:しょうへいざかがくもんじょ

江戸幕府学問所寛永7年(1630)林羅山設立した私塾始まり元禄3年(1690)将軍徳川綱吉の命により湯島移転寛政の改革のとき幕府直轄学問所となった朱子学を正学として幕臣藩士などの教育あたった明治維新後に昌平学校次いで大学校改称したが、明治4年(1871)閉鎖昌平黌(こう)。


昌平坂学問所

読み方:ショウヘイザカガクモンジョ(shouheizakagakumonjo)

江戸湯島にあった江戸幕府直轄学問所

別名 昌平黌


昌平坂学問所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/18 00:26 UTC 版)

昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年寛政2年)、神田湯島[注釈 1]に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。

沿革

湯島聖堂の「大成殿」(孔子廟)(2010年2月3日撮影)

林家の家塾として

1605年(慶長10年)に林羅山が将軍徳川家康に僧形の学者として出仕した後、1630年(寛永7年)に将軍徳川家光林家上野忍岡の五千余坪の土地と二百両を与えて書院と学寮が建てられ、林家の家塾としたのを起源とする[1]

1632年(寛永9年)に尾張徳川家徳川義直が同地内に聖廟を建立して「先聖堂」の扁額を与え、「先聖殿」と称した[1]1663年(寛文3年)には将軍徳川家綱が林家二代の林鵞峰に「弘文院学士」の号を与えたことから林家塾は「弘文館」(弘文院とも)と称された[1]1690年(元禄3年)に将軍徳川綱吉が神田湯島に六千坪の土地を与えて聖廟を建てて林家塾を移した[1]。綱吉が親書による「大成殿」の扁額を与えたことから、講堂は先聖殿から大成殿に改称された[1]。大成殿及び附属の建物を総称して「聖堂」とし、地名を取って「湯島聖堂」と称され、同地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名されたため「昌平坂聖堂」とも称された。1691年(元禄4年)、綱吉は林家三代の林信篤(鳳岡)に蓄髪(還俗)を命じ、従五位下に叙して大学頭(唐名は祭酒)の官職に任じた[1]。以後、大学頭の官職は代々林家が世襲して任じられ、聖堂の長の役割も担った。

学問所の設立

1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励された。その一環として、聖堂を林家の家塾とする従来の位置づけを改めることとし、1797年(寛政9年)までに「聖堂学規」や職制の制定など制度上の整備を進め、幕府の直轄機関「昌平坂学問所」(昌平黌)を設置した。

1792年(寛政4年)9月に湯島聖堂の仰高門内に講舎が落成すると、旗本や家人を問わず幕臣とその子弟の学問吟味を行うこととされた[1]

1817年(文化14年)には学問奨励のため17歳から19歳までの者に対して毎年素読吟味を行うこととされた[1]。昌平坂学問所の教師は林門に限られていたが、やがて林門以外の儒者による講義も行われるようになった[1]。外部から招聘された者に寛政の三博士と呼ばれた岡田寒泉柴野栗山尾藤二洲古賀精里がいる[2][3]。また、聴講入門も幕臣に限られなくなり、陪臣・浪人・町人にも許可された[1]

維新期の「昌平学校」

昌平黌は幕末期においては洋学の開成所、医学(西洋医学)の医学所と並び称される規模の教学機関であったが、維新期の混乱に際して一時閉鎖、その後新政府に接収され1868年8月17日慶応4年6月29日)には官立の「昌平学校」として再出発した。しかしこの昌平学校は従来のような儒学・漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学・神道)を上位に置き儒学を従とする機関として位置づけられていたため、旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立がくすぶり、特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「大学校」(のち「大学」)の中枢として位置づけられて以降、儒学派・国学派の主導権争いはますます激化したため、「大学本校」と改称されていた昌平学校は1870年8月8日(明治3年7月12日)当分休校となり、そのまま廃止された。このため、幕府の開成所・医学所の流れをくむ東京開成学校東京医学校東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、東京大学の発足に際し(「源流」としての位置づけはなされているものの)間接的・限定的な影響力しか持ち得なかったのである。

廃止後の経緯

湯島界隈での学校開設

昌平学校廃止後、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された[注釈 2]。また、湯島聖堂の構内の界隈において、文部省国立博物館[注釈 3]の他、東京師範学校(のちの東京高等師範学校)と東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校[注釈 4]等が置かれた。
後に文部省は霞ヶ関、国立博物館は上野、東京師範学校・東京女子師範学校およびそれぞれの附属学校は文京区大塚にそれぞれ移転した。東京師範の後身である東京高師は、新制東京教育大への移行を経て茨城県つくば市に移転し筑波大学に改編され現在に至っている(但し、附属学校等は大塚に止まっている)。東京女子師範の後身である東京女高師が新制のお茶の水女子大学移行に際して「お茶の水」を校名に用いたのは、湯島聖堂(旧昌平黌)構内界隈、現在のお茶の水橋界隈に所在していたことに由来する。

このように、幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降、中央大学[注釈 5]明治大学日本大学専修大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街神田古書店街の現在の発展へとつながった[何が?]が、敷地としての学問所跡地は、そのほとんどが東京科学大学湯島キャンパスとなっている。

東京大学への接続

前述のように、昌平黌は維新政府に引き継がれ「昌平学校」と改称された後、1871年(明治4年)に閉鎖されたが、教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。

脚注

注釈

  1. ^ 「湯島」は古代の豊島郡湯島郷に由来する地名で、「本郷」という地名も湯島郷の本郷に由来するという説もある。一方、「神田」は神田明神もしくは伊勢神宮の神田に由来する地名であったことから、由来の異なる両方の地名が被る地域も存在した。そのため、湯島聖堂・昌平坂学問所とその周辺地域は「神田」とも「湯島」とも称されたが、1887年神田区本郷区の境界が確定した際に湯島聖堂・昌平坂学問所のあった神田区宮本町は本郷区に編入されて湯島二丁目(現在の湯島二丁目とは境域が異なる)と改称された(参照:『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』(平凡社、2002年) P509-511)。
  2. ^ すぐに旧岸和田藩邸(現在の東京都立日比谷高等学校の場所)にて開校したが、文部省設置と共に引き取られた。
  3. ^ 現在の東京国立博物館国立科学博物館のそれぞれの前身にあたる。
  4. ^ 及び、のちに設立されたそれらの附属学校である練習小学校(現筑波大学附属小学校)、お茶の水女子大学附属幼稚園、さらにお茶の水女子大学附属小学校筑波大学附属中学校・高等学校お茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校などの前身諸校も含む。
  5. ^ 1978年から1980年にかけて八王子多摩キャンパスに移転した。跡地一部には現在、中央大学駿河台記念館が建っている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 名倉英三郎「江戸府内の諸学校と諸藩邸内学校」『東京女子大學附屬比較文化研究所紀要』第45巻、東京女子大学附属比較文化研究所、1984年、71-80頁、ISSN 05638186CRID 1050845762587738624 
  2. ^ 『寛政三博士の学勲』,P2,谷門精舎,1931年
  3. ^ 安井小太郎『日本儒学史』,富山房,1939、P255

関連文献

  • 山本武夫 「昌平坂学問所」 『国史大辞典』第7巻 吉川弘文館、1986年
  • 山本武夫 「昌平坂学問所」 『日本史大事典』第3巻 平凡社、1993年
  • 田尻祐一郎 「昌平黌」 『日本歴史大事典』第2巻 小学館、2000年
  • 斯文会・橋本昭彦 編『昌平坂学問所日記』 1巻、斯文会・東洋書院(発売)、1998年12月。ISBN 9784885942785 
  • 斯文会・橋本昭彦 編『昌平坂学問所日記』 2巻、斯文会・東洋書院(発売)、2002年3月。ISBN 9784885943188 
  • 斯文会・橋本昭彦 編『昌平坂学問所日記』 3巻、斯文会・東洋書院(発売)、2006年1月。ISBN 4885943825NCID BA3981881X 

関連項目

外部リンク


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