明法寮
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明法寮(めいほうりょう、1871年-1875年)は、明治政府発足後における法律家の養成を目的として、日本の司法省に設置された部局。明法寮で学んだ法学生徒が、明治、大正期に法律実務家や法学者として活躍した[1]。後にその機能が拡大され、立法事業を担う司法省の中枢機関となったが[2][3]、1875年(明治8年)に廃止され、明法寮が担っていた機能は司法省本省(司法省法学校)に承継された[4]。
- ^ 法務史料展示室・メッセージギャラリーパンフレット(法務省)
- ^ 手塚(1967a), p. 61.
- ^ 向井(1982), p. 45-46.
- ^ 手塚(1967b), p. 57.
- ^ 司法省から太政官に提出された明治4年8月28日司法省伺にその趣旨が記載されている。
- ^ 法令全書には、達ではなく沙汰として掲載されている。(手塚(1967a), p. 76)も参照。
- ^ 手塚(1967a), p. 57.
- ^ 向井(1982), p. 44.
- ^ a b c 手塚(1967a), p. 61
- ^ 向井(1982), p. 45.
- ^ 手塚(1967a), p. 62-63.
- ^ 大庭(2020), p. 110.
- ^ 宮川澄「日本における所有権意識の形成過程と近代法学の継受(二)」『立教經濟學研究』第26巻第1号、立教大学経済学研究会、1972年5月、63頁、CRID 1050282813517483904、ISSN 00355356。
- ^ 手塚(1867a)76頁
- ^ 手塚(1967b), p. 63.
- ^ 手塚(1967a), p. 60.
- ^ a b 手塚(1967a), p. 67.
- ^ a b 向井(1982), p. 52
- ^ a b 藤田弘道 1975, p. 64
- ^ a b c 向井(1982), p. 53
- ^ 手塚豊「自由党高田事件裁判小考(二・完)」『法學研究 : 法律・政治・社会』第46巻第6号、慶應義塾大学法学研究会、1973年6月、66頁、CRID 1050282814036010624、ISSN 0389-0538。
- ^ 手塚(1967a), p. 78.
- ^ 向井(1982), p. 55.
- ^ 藤田弘道 1975, p. 57.
- ^ a b c d e f g h i j k 手塚(1967a), p. 63
- ^ 明治大学を作った人々
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