富田鐵之助とは? わかりやすく解説

とみた‐てつのすけ【富田鉄之助】


富田 鐵之助 (とみた てつのすけ)

富田 鐵之助


氏 名
就 任
退 任
出身県:
富田 鐵之助 (とみた てつのすけ
明治21. 2.21
明治22. 9. 3
宮城県

 2代目日本銀行総裁である富田鐵之助は、天保6年仙台生まれました江戸遊学後、幕府海軍奉行であった勝安房守の推薦により米国留学主として経済学学びニューヨーク副領事、在英大使館1等書記官務めた帰国し大蔵大書記官として日本銀行創立事務当たりました

 明治15年より副総裁として、初代吉原総裁とともに日本銀行創業期中心的役割担った後、明治21年総裁就任すると、公定歩合弾力的に操作し変動激しかった当時経済安定化努めましたしかしながら、翌22年外国為替専門銀行であった横浜正金銀行への低利融資大幅拡大要請する松方大蔵大臣対し金融調節一元化企図して正面から反論して譲らなかったことが契機となり、辞任やむなき至りました

 総裁辞任後貴族院議員東京府知事歴任したほか、富士紡績横浜火災保険設立にも尽力するなど、各方面活躍しましたまた、自身結婚に際して日本ではじめてといわれる夫婦契約証を取交わすなど、非常に進歩的なであったことも知られています。

出典広報誌にちぎんクオータリー1998年秋季号)』)

富田鐵之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 04:20 UTC 版)

富田鐵之助
生年月日 1835年12月5日
天保6年10月16日
出生地 陸奥国 宮城郡仙台城下良覚院丁
没年月日 (1916-02-27) 1916年2月27日(80歳没)
出身校 ニューアーク商業学校
称号 従三位
配偶者 杉田縫

官選第12代 東京府知事
在任期間 1891年7月21日 - 1893年10月26日

選挙区 (勅選議員)
在任期間 1890年9月29日 - 1916年2月27日

在任期間 1888年2月22日 - 1889年9月3日


在任期間 1873年 - 1876年
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富田 鐵之助(とみた てつのすけ、天保6年10月16日1835年12月5日)- 大正5年(1916年2月27日)は、日本武士仙台藩士)、官僚外交官実業家は実則。は鉄畊。

日本銀行初代副総裁・第2代総裁を務めるが、大蔵大臣松方正義と対立して罷免された。後に貴族院議員・東京府知事を歴任する。

経歴

仙台藩の重臣(家格は着座、2千石[1]陸奥国桃生郡小野邑を領した[2]。)である富田実保(壱岐[2])の4男として仙台城下良覚院丁にて生まれる[2]安政3年(1856年)、藩命により江戸に出て砲術を学ぶ、帰国後に藩講武所の助手となる。後に許しを得て江戸に再度遊学して勝海舟の氷解塾に入る。慶応2年(1866年)同門の高木一二郎を連れて、慶應義塾に遊学し仙台藩士・大條清助の入塾を斡旋した。慶応3年(1867年)に勝の息子・小鹿アメリカへの留学に随従して渡米し、後に御雇い外国人として日本に複式簿記を広めることとなるW.C.ホイットニーが開いていたニューアークの商業学校(ニューアーク商業学校)で経済学を学ぶ。この間、仙台藩は戊辰戦争によって朝敵とされ、藩の緊迫した状況を察し一時帰国するが、勝に諭され再びアメリカに渡った。その後、富田は学業優秀であるとしてそのまま明治政府の留学生として認められた。更に、明治5年(1872年)の岩倉使節団派遣に際して岩倉特命全権大使を始め大久保利通・伊藤博文の知遇を得、ニューヨーク領事心得(後に副領事)に任命されて明治政府の外交官に登用された。2年後に帰国した際に福澤諭吉の媒酌によって杉田玄白の曾孫・杉田縫(杉田玄端の娘)と結婚したが、その際に日本で最初の夫婦契約書を作成したと言われている[3]

その後、今度は清国上海総領事に任じられた。その間に目賀田種太郎ら他のアメリカ留学経験者とともに「人力社」を創設して日本国民の啓蒙運動にあたった。後にイギリス公使館書記官に任命されて日本の近代化への努力について各方面に向けて説いて回った。明治14年(1881年)にイギリスから帰国すると、世界経済に関する知識を買われて大蔵省に移り、翌年日本銀行が創設されると初代副総裁に任命されて、総裁の吉原重俊を助けた。ところが、明治20年(1887年)に吉原が急逝し、翌明治21年(1888年2月22日に第2代日本銀行総裁に就任した。在任中に公定歩合制度の確立や外国為替の整備など、日本銀行の中央銀行としての基礎作りに尽した。ところが、当時の横浜正金銀行に対する外国為替買取資金の供給を巡って大蔵大臣・松方正義と衝突、松方の政治的圧力を受けても持論を改めなかったためにわずか1年7ヶ月で罷免された。帝国議会開設にあたり、1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に任じられ[4]、翌年には東京府知事に任命された。明治26年(1893年)に府知事を退官後は、実業家として活躍し、日本勧業銀行富士紡績横浜火災海上保険の設立に参加して横浜火災保険では社長に就任した他、日本鉄道理事なども歴任した。だが、自己の蓄財には関心が低く、私財を投じて共立女子職業専門学校の設立への支援や大槻文彦らとともに旧仙台藩出身者の学資支援などを行ったという。
墓所は護国寺

栄典

位階
勲章等

脚注

  1. ^ 齋藤秀彦(慶應義塾横浜初等部教諭) (2021年9月3日). “【福澤諭吉をめぐる人々】富田鐵之助”. 三田評論ONLINE. 慶應義塾大学. 2022年3月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月27日閲覧。
  2. ^ a b c 菊田 1933, 「富田鐵之助」
  3. ^ 富田鐵之助のニューヨーク副領事就任と結婚と商法講習所 - 「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(6)髙橋秀悦、東北学院大学経済学論集 第187号、2016-12
  4. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  5. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  6. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  7. ^ 『官報』第2341号「彙報 - 陸海軍 - 日本赤十字社録事」1891年4月23日。

参考文献

  • 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。 
  • 吉野俊彦『忘れられた元日銀總裁-富田鐵之助傳』東洋経済新報社、1974年

関連項目

  • 高木三郎 - 富田とともに渡米し、起居をともにした。

外部リンク


公職
先代
蜂須賀茂韶
東京府知事
官選第12代:1891 - 1893
次代
三浦安



固有名詞の分類


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