高木三郎とは? わかりやすく解説

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高木三郎 たかぎ さぶろう

高木三郎の肖像 その1
天保12年1月17日明治42年3月28日 (1841~1909)

東京生まれ。外交官、実業家。父は庄内藩士。安政6年(1859)軍艦操練所入所その後アメリカ留学明治4年(1871)に駐米日公使館書記官となり、臨時代理公使時代日米対等郵便条約締結するなど活躍するが、13年(1880)に外務省辞任以後生糸輸出目的とした横浜同伸会社取締役となり、30年にわたり販路開拓養蚕製糸改善などに尽力した

キーワード 外交官, 実業家

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高木三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 01:50 UTC 版)

高木三郎

高木 三郎(たかぎ さぶろう、1841年3月9日天保12年閏1月17日) - 1909年明治42年)3月28日)は、日本外交官実業家

来歴

庄内藩士の黒川友文の長男(は友敬)として生まれたが、故あって親戚の高木家の養子となり、名も三郎と改めた[1]1859年江戸幕府軍艦操練所に入学し、1867年慶応3年)よりアメリカ合衆国に留学した[1]。この留学は、勝小鹿の同行者として、富田鐵之助とともに渡米したものであった[2]。翌1868年(慶応4年/明治元年)から高木はニュージャージー州ニューブランズウィックに富田とともに居住した[2]

留学後も高木はアメリカにとどまっていた。留学生を活用する明治政府の意向により、1871年8月(明治4年7月)頃に高木はワシントンD.C.にある駐米日本公使館の「一時雇」となり、会計事務を担当する[2]。当時、大蔵省は高木と富田を帰国させた上で採用することを検討していたが、最終的に外務省1872年3月24日(明治5年2月16日)付で正式採用の上、駐米日本公使館の「外務省9等出仕」に命じられる[2]1873年(明治6年)3月には公使の森有礼の帰国に伴い「臨時代理」(5月より「事務代理」)に任命された[2]。公使の「事務代理」は7月に後任の矢野次郎が到着したことに伴って譲ったが、同じく森が担当していた日米郵便交換条約交渉の任は継続し、条約の締結と批准書交換を果たしている[2]。一方、矢野との関係が円滑ではなかったことから公使館からの異動を求め、1873年12月にサンフランシスコ副領事に任じられた[2]。休暇として1874年(明治7年)6月に7年ぶりに帰国し、10月に結婚した[2]。この結婚は「結婚契約書」を作成しておこなわれた[2]

1880年(明治13年)に外務省を辞して横浜同伸会社で取締役となる[1]。同社は生糸輸出を事業とする会社で、高木は死去するまで製品品質向上や取引先の拡大などに携わった[1]

脚注

関連文献

  • 高木正義『高木三郎翁小伝』高木事務所、1910年


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