まつおか‐ようすけ〔まつをかヤウすけ〕【松岡洋右】
松岡洋右 まつおか ようすけ
山口生まれ。外交官、政治家。13歳で渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。帰国後外交官となり、中国、ロシア、アメリカなどに勤務した。大正10年(1921)南満洲鉄道株式会社の理事、昭和2年(1927)に副総裁となる。5年(1930)衆議院議員に当選。国際連盟総会に主席全権として派遣され、8年(1933)満州国に関する決議案に反対して退場、連盟脱退に至った。10年(1935)満鉄総裁に就任。第2次近衛内閣の外相となり、15年(1940)に日独伊三国同盟、16年(1941)日ソ中立条約を締結。戦後、A級戦犯に指名されたが判決前に病死した。
キーワード | 外交官, 政治家 |
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松岡洋右
松岡洋右
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松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。
注釈
出典
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松岡洋右
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松岡洋右
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物語当時は満鉄顧問、のち外相。作中では強面外交官として登場。登場シーンは少ないが対米英強硬派として描かれている。英米に対抗するため、ドイツ・イタリアに加えてソ連との提携を考えており、そのため石原や辻の対ソ戦争の謀略を嫌う。甘粕には「ヒトラーと互角に張り合えるが、策を弄しすぎる面がある」と評価されている。
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